両性具有文学
・井野博美・

    宇宙の花粉  13


 三日後の早朝、ナンシーは赤ちゃんを連れて、静之が結婚してから通っている三鷹の病院へ、ワゴン車を運転して一緒に赴いた。早く着いたので、今日は一番最初の患者だった。医師は歳の頃五十五くらいの、顎髭を生やしたやせぎすの体格で、背は高かった。患者が夫婦揃って初めて来たことと、揃ってTV[トランスヴェスタイト:衣装転換]であることに、最初驚いたようだった。ナンシーは男姿、静之は女姿だが、どちらもどう見ても女なのだから。
 まず二人揃って問診を受けた。
 「どちらが旦那役ですか?」
 「はい、私です。」
 ナンシーがハキハキと返辞した。医師はカルテにそう書き留めた。
 「あなたの奥さんには僅かながら男の性機能が働くということは、お子さんをお造りになったということでも判るのですが、性交渉は順調ですか?」
 「あまり順調とは言えません。半年に一度くらいしか。」
 「では、ちょっと旦那さんとお話をしたいので、奥さんは廊下でお待ちになっていて下さい。」
 静之は席を立ち、廊下に出た。
 それから医師は、静之は奥さんではあるが、男の性機能があるので言うのですがと前置きし、男には性行為が欠かせないものであり、しばしばしないと精神に失調を来すものであり、外で女性のスカートを捲ったりの性的悪戯をするようになるというような、ありきたりの説教をして、どうか相手をしてあげて下さい、そうすれば神経の過度の緊張もほぐれ、自然に眠れるようになるし、外で妙な行動をしなくなる筈だということを強調した。
 そのことにはナンシーにも心当たりがあった。秋葉原の喫茶店で彼女を見かけた時、彼女は股間に氷水を運んでお尻をびしょぬれにしてから店を出て、みんなに濡れたお尻を見られながら歩くという、女の見られたいという欲求を満たし、駅の階段では、スカート捲りをするという、男の見たいという衝動を実行に移した。そういうところをナンシーは目撃している。
 医師はそれに続けて、結婚する前、静之は夜型人間になっていて、夜半になっても神経の過度の緊張が弛緩せず、それが原因で不眠症に罹ってしまったが、結婚してからは、夜の二時には眠りに就いているので、そろそろ神経の緊張も夜にはほぐれる頃で、それを手助けするのに性行為程有効なものはないと言い、静之は心は女だから、心が男であるナンシーに抱かれるのを待っている。旦那なんだから奥さんの症状を直すよう手助けするのは当然でしょうと注文を付けた。
 静之の主な症状は不眠症なので、それをまず治すようナンシーも手助けして欲しいと言われて、静之と交代となった。そんなわけで、ナンシーが訊きたかったことを話す余地はないままに、彼は部屋を出なければならなかった。これでは、自分で考える以外にないとナンシーは決心した。
 医師と静之の問診がどんなものかは解らなかったが、部屋から出て来た彼女の表情が浮き浮きしていたので、何かいいことを話し合ったのだろうくらいは解った。時間は全部合わせても二十分くらいのものだった。結局旦那であるナンシーに、医師は静之の症状をあまり詳しく話さずに面談を終えてしまった。そのことにナンシーは若干の不満を覚えたが、まあ、大したことはないからなのだろうと解釈して、病院を後にした。
 静之は寝る前に睡眠剤を飲む他に、朝起きてから、精神安定剤を毎日飲んでいる。それは何のための薬なのか、静之はナンシーに話してくれない。メジャートランキライザーの一種であることは解っている。今日、静之が薬局に出した医師の処方箋には、三種類の薬の名前が記されていたのを、ナンシーは頭に入れていた。静之をいつものように病院の帰りは秋葉原に回らせることになっているので、三鷹の駅まで送ってから、本屋に寄って、薬の本で調べてみたら、精神安定剤とその副作用止め、そして、妄想幻覚防止剤と判明した。
 静之が妄想を抱いたり、幻覚を見るとはちっとも知らなかったが、今まで付き合ってきた限りでは、そのような気配は全然見せていない。至極自然な様子だ。それは薬を飲んでいるために、症状が抑えられているからなのだろうか。薬を飲まなかったら症状を呈するのだろうかと、心配になってしまった。
 静之が情緒不安定を示したのは、たったの一回しかナンシーには記憶にない。猪俣家にオムツカレーをご馳走になりに呼ばれた時だけだ。ナンシーが、「私は狙われていたわけね」と言った時、わっと泣き出して台所に行ってしまった時だけだ。あれは過敏な反応だったことは確かだが、妄想や幻覚と関係あるのだろうか?
 ナンシーが静之を疑っているという静之の発想は妄想だろうか。それは単なる危惧の念ではないのか。一種の心配性が度を超えて強いというだけのことかも知れない。芸術家にありがちなオーヴァーな悲しみの表現だったかも知れない。それに女性に良くあるヒステリー発作が重なったのかも知れない。
 そういう傾向が強いために精神安定剤を処方されているのだとも考えられる。何も俄に静之を妄想幻覚を抱く危険な病人と決めつけることは、静之の心を傷つけ、不安定な状態に突き落とすことになるだろう。だから、そのことは黙っていることにしよう。日記にも、彼女がそういう病に罹って困っているというようなことは一切書かれていなかったし。
 今のところ、彼女が病人であると思わせられるような素振りは一切見せていない。だから、病人に対するような態度を取ることもしないように気をつけよう。薬の効能を知ってしまったら、妙な心配事をするようになってしまったなと、ナンシーは苦笑いをした。マンションに帰って、静之のデスクの右上に置いてある薬入れの籠を見ると、紙の袋に朝のところが丸く囲われているのがあり、それの中身を見ると、大分余っている。安定剤や妄想幻覚防止剤は、毎日は飲んでいないということだ。
 彼女がかなりの脆弱さと、繊細過ぎる、過敏で腺病質な神経の持ち主であることは確かだが、それ故に、それらの要素が炸裂しないように、時折安定剤を飲んでいるというのが本当のところなのだろう。それらの要素を磨くことは、音楽家としては当たり前のこととも思えた。芸術に熱中すれば、それらの要素が自然と身に着くとも言える。彼女の躰はかなり細身だから、神経もか細いのかも知れない。
 だとしても、彼女が分裂症だなどということを意味するものではない。そういう病の気配は微塵も感じられない。そうナンシーは結論し、一安心した。思い過ごしだと結論した。いや、したかった。それを確認するために、お昼休みに今日問診を受けた医師に電話で、外来の受付から繋いで貰い、静之が分裂症ではないということを確認した。これで一安心だわとナンシーはホッと一息ついた。
 静之が女と男の性的欲求を両方とも満たしたいというのは、彼女の両性具有という肉体にとって自然な結果であり、彼女の心の生まれついての葛藤の種であり、それを彼女は咀嚼しなければならない運命にあるのだ。その相手をしてあげるのが、旦那としてのナンシーの心の寛さを磨くことになるのだろう。そう、ナンシーは思い到り、一人納得した。
 彼女が時折オムツブルマーをミニスカートの下に穿いて出かけ、しゃがみ込んで男共に股間を覗き込ませてウンチョを大量にお漏らしするのは、今では彼女の自己破壊という性的快楽になっているようだが、それは同時に、見る男の性欲の元であるエロスをねじ曲げるものでもあり、そうすることによって自分の性欲の男の部分を、受動的な女の部分に統合させているのだ。若い両性具有者の性欲の発露の道なのだろうと思った。彼女自身の複雑な性欲の昇華なのだと。
 男に抱かれることが出来ないオンナであるということも、彼女のコムプレックスの大きな要素だ。膣が盲端膣であり、小指の太さのものしか入らないので、男と性行為も出来ないのだ。しかし、男に抱かれることが出来たらなあと残念に思っていることだろう。にも関わらず、彼女のクリペニスの衝動が、女を対象として働いてしまう。それが彼女の無意識の不安だ。
 それは静之が、基本的に女型の性の持ち主でることを示すものである。その躰に生起する男の性的欲求は彼女にとって、コムプレックスであると認識されているものであり、それを無くしたいとは思うが、その不安な衝動は消えないので、自己破壊の性的快楽となって、男にウンチョを失禁するところを見せつけるということをして、折り合いをつけているのだ。それで、何とか、彼女はオンナとして精神を維持している。
 そういうわけなので、静之の両性具有は、オンナを基にした精神に花咲くものなのだと、ナンシーは結論した。どうやら両性具有者の性欲は、自己破壊をも求める快楽となるものなのだとナンシーには思えた。その快楽が彼女を本当に精神的に破壊しないように、注意して相手をしなければいけないんだとナンシーは思った。彼女の生を、肉体に起因する破壊の衝動から守るのは、自分の能力に掛かっているんだと思えた。
 彼女にとって、コムプレックスは生の同伴者であり、消せるものではなく、互いを高め合う動機となっているという点で本質的なものだ。その動機を彼女と分かち合おうとナンシーは決心した。





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