ナルシスのカノン 4
次の日のお昼過ぎ、和男は再び父のギャラリーにいた。父の彫った、アイヌ人の顔のペンダントをボロ布で磨いていた。この種のペンダントは槇の木を彫って作る。槇は木目も細かく、白く、とても硬い。電動ドリルで穴を開けようとすると、刃の方が弾けて折れてしまうほどだ。
生のままでは彫刻刀でも歯が立たない。それで、彫る前に一晩ぬるま湯に漬けて柔らかくする。そうしないと彫れないほどなのだ。
そうして彫った物を次に、カシューに小量の二酸化マンガンを混ぜた液に浸しておく。それを今度は、炭火で炙って色を焼き付ける。表面は焦げ茶色になる。それをボロ布で磨く。ちょっと擦った部分はチョコレート色になり、充分に磨いた部分は象牙色に輝く。木目は完全に見えなくなる。チョコレート色と象牙色の柔らかいコントラストが織りなす具合で、人の顔を浮き立たせるのが職人の腕の見せどころだ。和男はその練習をしながら、尚美がいつ来るかと気をもんで、切り株に腰を下ろしていた。
暫くすると釧路から来るバスのクラクションが聞こえ、その5分後に尚美が現れた。昨日と同じインディアン服を着ていた。今年ももう小雪が降って、地面の上数センチの高さで風に舞っていた。
和男はウィンドウを開けて彼女を中に招き入れた。彼女は石油ストーヴに両手をかざして、軽い身震いをして服にかかっている乾いた雪を散らせた。和男は彼女を切り株に座らせた。
「インディアン寒いあるか?」
「ええ、昨日よりも寒いわ、日一日と寒さが募ってくるのね、毎年今頃は、釧路より大分寒いみたい。」
そう言う尚美の顔を見やると、今日はお化粧をしていることに気がついた。そして彼女は自分のために、和男に好かれるようにと、メイクアップして来たに違いないと思い、嬉しかった。
「お化粧もうまくなったね、蒼白さが艶めかしいよ。それにメキシカンレッドのルージュも似合っているよ。」
彼は、そんな色の名前の口紅があるか無いか知らないがそう、言ってみた。
「うーん、そう、似合っていると言われてあたし色彩豊かに心も弾むようだわ、女は色だものね。」
和男は、彼女の青白さがお化粧しているせいだけではなく、項や手首の青白さから察して、寒さのせいが大きく作用しているのではないかと思って、ストーヴの温度調節器を強の方へ回した。
そんな和男の心配りを無視するかのように、彼女は言いたいことを口にした。
「アタシも適齢期だもの、誰かあたしが美しいって言ってくれる男の人を探さなくっちゃ、貴方の他にも、、、」
尚美は和男の他にも結婚する相手を探しているような思わせぶりで、和男を強引に惹き付けるようにそう言った。彼はその言葉に返す気の利いた言葉を見出せなかったので、暫く黙っていた。心の中で思った。
[何て女心って奴は勝手に引きずり回わすんだ。昨日はあんなに従順だったのに、ちょっと褒めたら性的に暴れ出すとは、とんだ藪蛇だったな。しかし、慌ててはいかん、まだたったの一言じゃないか、俺を何とかしたいからそう言うんだろう。ということは、まだまだ従順だということだ。お化粧まで俺に従って来たじゃないか。
誰をおいても、真っ先に俺に掴まえて欲しいということだろう。そうに違いない。それに気付かないほどトンチキじゃないぜ。慌てるな。それにしても、神経が過敏になるなあ、どういうわけだ、畜生。尚美を待ち焦がれていたせいだろう、彼女も焦っているので、そこで鉢合わせしてしまったということか、そうだ、そうに違いない。もう少し彼女に調子を合わせてみよう。もう少し寛容になるべきだ。そうすれば、彼女の女振りがより華やかになるに違いない。そんな生き生きした娘を相手にする方が楽しいだろうさ。]
それから徐ろに、単純な返答をした。八方破れの騒がしさから、目の前に尚美だけを引き抜いて美的に据えよう。
「そうか、君も恋人が欲しくなったのか、僕もだよ。何せ、東京ではまるっきりの独りぼっちだからね。いい年頃だというのに。」
尚美は、和男の短い沈黙と、それに続く今の言葉を聞いて、一種憂いを帯びた顔付きになり、少々単純に和男の嫉妬心を刺激し過ぎたかなという後悔の色を浮かべ、物静かで弱々し気な調子でポツリポツリと内心の想いを開いた。
「でも、貴方の傍にはいつもミス。ドモリンドが座っているんでしょう? その点、あたしには普段近くに男性が誰もいないのよ、兄弟の他には。デッサンスクールでも女の子達としか口を利かないし、それも土曜日だけなのよ、あたしも寂しいんだわ。」
和男が期待していた華やいだ女の口上は得られず、彼は少々拍子抜けした。しかし、彼女がミス・ドモリンドの存在を妬んでいるらしいと了解し、作戦を変え、反抗に出ようとした。
「君が気にしているのは女の六感って奴かも知れないね。それが鋭いのは性的に純真だということだよ。ミス・ドモリンドは内心どう思っているのかな、いつも僕の傍に席をとるんだからね、今度顔を合わせたら訊いてみようかな。なんてね。御免よ!」
和男は嫉妬心を煽り返すかのように、鼻の下を長くして顎を撫でた。尚美は、口を真一文字に結んで、きつい顔になった。
「あら和男さん、本当に訊いてみるの? そんなことどんな顔して訊くのかしら、想像するだけでおかしいわ、きっと頬を赤くしちゃって緊張して、吃ってうまく言えないんじゃないかしら。彼女の吃がきっと乗り移っちゃうわ、そしたらお似合いのカップルかもね。でも第一何て言うのよ。
[君、僕のこと好きかい?! ] なんて言えるかしら、面白いわ。」
和男は、一応彼女の嫉妬心を確認したので、今度はリズムを変えて、彼女に再び調子を合わせることにして、顔付きを和らげた。それを見て尚美も温和ないつもの表情になった。
「そうだねえ、初めて話をする人にそんなこと訊くの、変だよなあ。すると僕は所詮相変わらず独り者なのかなあ、東京では。」
「貴方も恋人を探せないってわけか、あたしと五分五分ね。御同類で安心したわ。」
二人の愛の心理戦はこうして、幸い、引分(イーヴン)に終わった。二人は互いに祝福を受けたように感じた。尚美は話題を少し進めた。
「それにしても東京の女の子は綺麗なんでしょうね、クロッキーのモデルさんなんかも美しい人が来るんでしょう?」
「そうだねえ、ほんの時たま若くて綺麗な娘が来るけど、そういう娘に限って途中で泣き出したりするんだ。君だってきっと、ヌードモデルになったら。泣き出しちゃうだろうな、恥ずかしくて。」
そう和男は、尚美の初(うぶ)さに見入りながら、無意識の裡に彼女の肢体をじろじろと眺めていた。
「あら貴方、あたしのヌードを想像しているの、厭な人ね、絵描きってみんなそうなんだから。貴方もそんな通り一遍の男なのね、知らなかったわ。女を見ればすぐにヌードを連想するって、若い芸術家の悪い癖だわ、貴方、そんな悪い癖ばかし身に着けちゃって、力量の方はどうなの、いい絵描いているの、見せて頂戴よ。」
「シェイクスピアも言っているけどね、どうしても直らないのは爺の強欲と若者のスケベ根性だってさ。
東京から持って来たのは、この二冊だけさ。」
和男は徐に、ギャラリーの一番奥の壁際に立て掛けておいたMUSEのQB3型のタブレットを取って来て、尚美の目の前に広げて見せながら思った。
[いいぞいいぞ、これでやっと俺のペースに嵌まるぞ、俺のいいところを見せられるぞ、何しろデッサンには自信があるからな、傑作もあるしな。]
しかしそこで、一人の客がガラス戸を開けて中に入って来た。年の頃、25,6に見える、向っ気の強そうな女性だった。
「このお店はまだやっているのね? 」
和男はその女性にこくんと頷いた。そして、注意深い一瞥をくれた。それは対象の姿を一目で見抜く画家の訓練をした賜物なのだが。この寒い阿寒に、もう10月も半ば過ぎだというのに、ニットの白いワンピースを着ているのが不自然だと思った。その女性は、胸に純金のネックレスを吊していた。
その客はギャラリーに飾ってあるレリーフや油絵を見終わると、その部屋から通じている売店の方へと入って行き、もうほんの少ししか残っていない木彫りの人形や熊やそのマスク、そして典型的なアイヌ人の顔が彫られているトルソーなどを眺め回っていた。それから意を決したように、鮭を銜えている黒く大きな[豚毛]と呼ばれる彫り口の熊を手にしてギャラリーに戻って来た。もう、柳彫りと呼ばれる高難度の、細い毛の彫りの高級品は売り切れていた。
「これを送って欲しいんだけど。」
和男は彼女に、住所氏名を書き込んで貰う用紙とペンを手渡した。それからワックスの缶を開け、ボロ切れにワックスを着けて、その熊を磨いた。その像は運良く罅が入っていなかった。
「この熊さん、3万円て値札が着いているけど、どうせ売れ残りなんでしょう、安くしてよ。」
和男はこっくんと頷いて、
「じゃあ2万円で。」
「ううん、もっと安くなる筈、そう1万円ぐらいにはなる筈よ。」
その女は向っ気丸出しで値切った。すると和男は、再びこくんと頷き、
「特別サーヴィスですから宜しく!」
白いワンピースの女は、住所氏名を用紙に書き込むと、きっとした表情になって、尋ねた。
「この辺にどこか面白く遊べるところないかしら、あたし東京から来たのよ、100万円持ってるわ。パパが小さなパソコン工場の社長をしているの、お金は十分。本当どこか面白いところないかしら? ところであんた高校生?」
和男は若く見られてにやりとしながら、熊を新聞紙で包み、段ボール箱の四隅にも新聞紙で作ったクッションを入れて熊をしまい込み、それを更に羅紗紙で包んでガムテープで止め、表面に送り先を書いた用紙を貼り付けて、客の注文をいかにも慣れた手つきで片づけた。
「後で郵便局に届けておきますから、1週間ほどで着くと思いますよ。ところでお客さん、この変には面白いところなんて無いんですよ、東京と違ってね、この辺の大自然に溶け込む以外には。その楽しみのためにはいくらお金持っていても何の役にもたちませんね。阿寒横断道路を自動車で往復するのは一興かな。後は、まだ開いている民芸品店を眺めることですよ、素晴らしく素朴で美しい木彫を彫っている人もいますからね。その他、部落の守り神(カムイチカップ)である梟を彫っている人もいますよ。
それからね、お客さん、僕はとうの昔に高校なんて卒業してるんですよ、今頃高校生がこんなところで屯してるもんですか、学校に行ってますよ。女の子じゃあるまいし、若く見られて嬉しがるような歳じゃありませんよ、僕はもう20歳ですよ。」
和男はさも忌々しいといった表情で結んだ。その女は半分固めを吊り上げながら、つつっと横を向いてドアーを開けにかかった。そこで思い直したように一言付け加えた。
「又来るわよ、近々ね、宜しくね。」
「どうも有り難うございました、お嬢さん!」
「あの白いニットの服は、いかにも季節外れだって気がするんだけどなあ、尚美、どうだい、もっと暖かい色かウールの服でも着ればいいのになあ。」
「そんなこと大した問題じゃあないわよ、北極には白熊だっているじゃない、このお店にも白熊の像が置いてあるじゃないの。
それよりか問題はこのデッサンよ、貴方、この絵貴方の顔だわよね、何これ、スリップ姿の貴方の絵じゃないの。十字架に磔にされて槍で刺し抜かれちゃって、肩紐の片方が外されておっぱいまで見えるわ。これは一体何なの、おちびさんがフリルの着いたミニのスリップの裾を持ち上げてるわ。」
そこまで聞くと、和男は両の耳を手で覆って、[ああっ! ] と低く呻いて卒倒してしまった。
それを見て尚美は血相を変えて、和男の頭を支え、上半身を起こそうとした。暫くすると、和男は目を開けた。少し目が笑っていた。すると尚美は、和男の胸ぐらを掴んで立たせた。彼はピンシャンしていた。
「何よ貴方、失神した振りなんかして、あやしいわ。あんまりびっくりさせないでよ、心臓が止まるかと思ったわ。
さあ、もう一度このデッサンよ。おまけに十字架の横木に磔にされた腕から顔にかけて、蛇が絡まってキスしているじゃないの。
貴方がこんなデッサンを描いているなんて夢にも思わなかったわ。昨日のうっとりと見惚れる女の子の目つきといい、貴方とても妖しいわ。貴方女装趣味があるの? それとも女性化願望があるの、ホモになったの、厭だわ、そしてマゾヒストになったの? 何て気味の悪い絵だこと。
でもファーロス(男根)期はご卒業のようね! チンプレイもできそうね!」
それを聞くと、和男は再び小さく呻き、両耳を手で塞いだ。その和男の胸ぐらを尚美が掴んで、彼が倒れないようにした。
尚美はさも呆れたと言わんばかりにまくしたてた。和男は、自分の最大の問題作をそんな風に槍玉にあげられて狼狽したが、平静さを装って気圧されながらも言い返した。
「その顔は誰のでもないさ。この絵はヘルマフロディトスに捧げる神聖にして崇高なる絵さ、両性具有の神様に捧げるものさ。ヘルマフロディトスは人々の眼差しの前に磔にされる運命にあるのさ、何も僕がホモになったわけじゃないさ。ホモ・ナトゥーラ(自然人)、[ 自然倒錯 ではない]さ。」
「そういうつもりなの、でも隠すことはないわ、この顔は確かに貴方のものよ、いくら否定したって駄目よ、いくら両性具有の神様を持ち出したって無駄というものよ、それは貴方の個人的願望よ、あたしの目はごまかせないわよ。」
和男の胸の裡には、秘やかではあるが大きな隠し財産があった。それは、小学校の6年の時に、手術して子宮を摘出したことに起因している。子宮が月経を開始し、お腹がズシーンと痛くなって動けなくなり、入院し、手術したという事実が効いていた。
高校に入ってから彼はそのことが気になりだし、自身が、おっぱいは小さいが、ヘルマフロディトスであるということが大きな秘密となって脳裏に焼き付き、以来彼はその事実を自己の芸術的モチーフの一つにしてきた。
彼の目つきが時折女っぽくなるのも、その女性的名残の要素の自然発生的不可抗力の為せる業(わざ)だ。ふとしたことで無意識の裡にそういう目つきになってしまうのだ。時折それに気付いて姉が注意してくれたこともあるのだが、時として彼の気配りから免れて洩れ出てしまうのだ。目つきだけでなく、挙措のいくつかが女性っぽくなる。それで今、尚美にとっちめられる破目になっているのだ。
「ところでこの蛇は何なの? 何かの象徴なの、薄気味悪いわ。」
「蛇は人間の深層心理にとぐろを巻いている爬虫類さ、普通の人から気味悪がられて寂しいヘルマフロディトスにとって、唯一の心の底から信じ合える生物さ、彼の生の象徴だよ。」
彼は尚美に教え諭すかのように自分の勝手な説を述べた。
「そう、するとこの蛇は秘かな貴方の深層心理に深く巣くっているというわけだわ。」
数瞬の間尚美は黙ってその絵を見ていたが、突然何か閃いたという調子で話し始めた。
「ああっ、そうか、解ったわ、貴方は男と女を、自と他を、そして生と死を一つに結びつけているのね、性の分裂を媒介にしてエロスとタナトスの両極の衝動に駆られているんだわ。その上で自己愛に溺れるナルシシズムに落ち入っているのよ。それだけでも立派な神経症者ってわけよ。
こうも言えるは、貴方のアニマは実に大きな場を占めているってね。貴方は多形態的倒錯の最たる例よ。この絵は類い稀な貴方の深層心理の自画像なんだわ。」
そう尚美は、最後の言葉を言いながら和男の目を見つめた。
「そうだなあ、何せ2年半も東京で寂しく暮らしていたからねえ、自然とそうなるのかなあ。しかしこれくらいは幻妖の嗜み、或いはその弁えといった程度さ。」
和男は自身の肉体上の秘密をはぐらかすようにそう言った。しかしそこまで言うと急に、今まで耳目を掠めたことのない用語を尚美が口にしたことに苛立ちを覚え、少々険悪な表情になって口を尖らせた。
「君はいつから精神分析学の専門家になったんだい、昨日言ったばかりじゃないか、
[論理が群をなして他人に迫っていくのは、女には似合わない]って。その舌の根が乾かないうちにもうこの調子だ、やり切れないね、君には、もう忘れているんだから。本当は君の方が理屈っぽいんじゃないか、僕は感じた通りのことを絵にしたり文章にするだけなんだ。
それに君、お医者さんでも男でもないのに、[ファーロス期](男根期)なんて言葉は口に出さないで貰いたかったね、僕だって口にできないことさ。はしたないとは思わないのかい、君は女の子なんだからね、もう少し淑やかになって欲しいね、僕としては。せめて、[ファンタスマ](幻覚)ってくらいで収めておいて欲しかったね。」
和男は吾ながらうまい言葉を見出したことに満足し、気を良くして喋り続けた。
「それにしても君は少々サディスティックなのかな、そんなに人の心を、あたかも純粋無垢な小鳥が餌を啄む(ついばむ)みたいに、楽しげに無頓着にほじくり出すなんて、あんまり無神経過ぎるじゃないか、女の子らしくないね。思わず発想して口にする言葉にまで羞恥心を失うなんて図は、僕の恋人には似合わないね。
僕はね、君がこの絵を見たら両の眼を突いて卒倒し、失神した振りぐらいするかと思っていたけど随分と外れたね。失神した振りをしたのは女の子にあるまじき言葉を耳にした僕の方だったとは、夢にも思っていなかったよ。
尚美は、和男の語気鋭い剣幕に溌剌とした表情を曇らせたが、何とか応答した。
「あら、どうしたっていうの貴方、急に怒りだしたりして。あたしはサディストなんかじゃないわ。サド侯爵の本なんて読んだこともないわ、身分が違うもの、あたしは芋男爵の娘よ。」
そういうことを言う娘に限ってサディズムの餌になるんだと和男は思ったが、黙っていた。そうだ、サディストになるよりか、その餌食になるのだ。尚美をその魔の手から守ってやりたいが、、、と和男は思い、顔付きをいつもの温和な面に戻した。
「唯、貴方のこのデッサンに夢中になっただけよ、純粋無垢にね、ただちょっと夢中になり過ぎて、思いやりを忘れてしまったみたい。でもこの絵には、誰が見たって精神分析したくなる要素に満ちているのよ。
それからさっきはしたない言葉を口にしたことは謝るわ、[ファンタスマ]って素敵な言葉ね。ねえ、機嫌を直して頂戴。この絵には孤客の美しい魂って感もあるわ。
それからね、和男さん、内の家風は質実剛健でね、人前で卒倒して失神する振りをするなんて許されないことなのよ、エリザベス女王みたいに高雅な女じゃないのよ、あたしは。でも、これからは和男さんの気に入るようになるよう努力してみるから、機嫌を直してよ、お願い。」
その言葉を聞いて、和男は矛先を収めることにした。彼女が、[類い希な]と言ってくれたことで、肉体上の秘やかな宝を保護し、ある程度自己満足し、小学生時代の蒼古的想い出を活性化したことで我慢することにした。それに尚美に自分の最大の問題作を精神分析する楽しみを与えるのもいいだろうと思った。最初から期待していたことなのだから。しかし、反応が予期していたこととは大違いだったが。
精神分析学は山海の珍味だということを和男は聞き知ってはいた。しかし自身はまだその方面の本を読んだことはなかった。時々書店でそれらの書物の前に立ったことはあるが、これらの本を読もうなんて人は、シソイド人間かパラノイア人間だなんて周りの人に思われているような気がして、いつも気後れして手を出しこまねいていた。これらの本と人目には大きな関係があった。
[アニマ]とは何だと訊いてみようかなと思ったが、そんなことまで知らないとはとんだ芋公だと思われるような気がして止めた。
和男の目つきが温和になったのを見届けると、尚美は再び楽し気にその絵を見やった。
「和男さん、このスリップ、お姉さんのをギッタんでしょう? 内の兄貴達もしょっちゅうあたしの下着をギルのよ!」
「何を言うかと思えば痴れたこと、君は又僕を失神させるつもりかい? 僕は君の兄貴達とは違うさ。もっとも通常の兄妹の間では日常茶飯事らしいけどね。」
[それじゃあこれ誰のよ]と訊かれる前に、和男は話題を変えた。
「ところで君は、誰から精神分析学などという趣味を植え付けられたんだい?」
「上の兄貴がいっぱい精神分析学の本を買ってくるのよ。それで時々それらの本をあたしも読んだってわけなの、この1年間でみっちりとね。それで少しそちら方面の知識があるのよ。そのあたしの眼から見ると、昨日の貴方の日記といい、このヘルマフロディトスの磔の絵といい、充分に神経症の気があるって思えるのよ。自虐的なのもその大きな特徴の一つなの。」
尚美は再び溌剌とした生気を漲らせて和男の顔を見やった。和男の精神状態を自作の鋭利なナイフで切ったと思って得意気な顔をしている幼稚な心理状態の尚美を、和男は心なしかしょんぼりした目つきで見つめていた。
しかし、彼女の精神分析の趣味が、兄弟以外の男性の影響でないと知って、彼は一安心し、やっと普通の調子になって皮肉を一言。
「ところで思うんだけどね、君はもう少し可愛らしくなれるって、君のママは言っていないかい!? 」
尚美はちょっと吹き出しそうに笑ってから、和男の頬を抓った。
「あたしは男っぽいのよ。」
「なるほど、それでペチャパイなんだ!」
「何よそんな、おちびちゃんのくせして!」
和男は再び両耳を手で覆って失神する仕種をした。
「何よ貴方、ワンパターンじゃないの!」
「可愛くないね、今日の君は。」
「貴方が描いたこのおかしな精神状態の絵のせいよ。」
よっぽどこの絵が気に入ったらしいなと思いつつ、和男は柔らかく尚美の肩を揉んだ。尚美の肩は柔らかく華奢だった。久しぶりに尚美の肩に触れたように思った。温かな感触の中で、彼は尚美のことを、自分のお気に入りの道具達、チェコ製の木炭や、MUSEのクロッキーブック、そして腕時計などのように、いつも身近に持っていたいと思った。
「この絵に深い感銘を受けたとはね、感性的には合格だね。」
「そう言ってくれると嬉しいわ!」
和男の方を振り返った尚美の眼は、本当に嬉しそうだった。その眼に和男は気を良くした。
|
|
|
|
|