両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  7


 日一日と和男の体力は恢復していった。もうベッド生活2ヶ月も終え、自由に動き回れるぐらいになっていた。そんなある晴れた日の昼下がり、1週間ほど前にギャラリーを訪れ、熊の像を注文した白いローブの女性が再び現れた。
「ハーイ坊や、約束通り又来たわよ!」
その口の利きようから、今日は自分をからかうために来たのではないかと疑いつつも、杓子定規な挨拶をした。
「今日は、いらせられませ!」
「このお店、貴方のパパのでしょう。これだけのお店とギャラリーを持っていれば、充分にプチブルの資格があるわね。あたしのパパは小さなステレオ工場の社長だから、お互いプチブルの出というわけよ、だから仲良くしてよ。」
「仲良くするって、どんな具合にですか?」
和男は真面目な顔で白い服の女性に尋ねた。しかしその女性は、和男の気持ちを無視するかのように勝手に、そして挑むように問いかけてくるのだった。
「貴方一人っ子でしょう?」
この女は和男の神経を逆撫でしたくてそう言ったのではないかと思いつつ、この手の女性相手には、節目正しく返辞するのが商売人として肝心ではなかろうかと思い、できるだけ丁寧に応えた。
「いいえ、僕には姉が一人います。」
厳粛そうな面もちでそう言った。
「何だお姉さんか、それじゃあこないだここにいた女の子ね。」
そう言われて、思わずガクッときた。2歳も年下の尚美より下に見られたためだ。それで憮然として黙っていた。和男はいつも年齢よりも若く見られるのが常だったが、尚美より年下に見られるとはと、ガックリしてしまった。
「それじゃあ尚一層一人っ子よ。一姫二太郎の男の子は、一人っ子よりも甘えん坊なものよ。親にねだってお姉さんに甘えてっていう調子でね。」
そう単刀直入に言われてみると、不思議な滑稽味が胸から喉へこみ上げてきて、思わずけたけたと笑った。
「何がおかしいの!?」
「何がって、そんな風に甘える男がいるかと思うとおかしくってね、笑いを禁じ得ないんですよ。」
この女性の少々軽薄な物腰に上塗りするかのように、軽やかな喜劇的要素が加わっているように思えてきて、大分彼女に対する気分に落ち着きが感じられてきた。しかしそれでも和男には、この女の態度や物の言い様が気に入らなかった。彼女は相変わらず和男の心の内など無視するかのような表情を変えなかった。そして唐突な口調で和男に話しかけてくるのだ。
「貴方、笑い事じゃあないのよ、そういう男の子はいくらでもいるのよ、きっとあんたもその手合いよ。ねえママ、これ買って! ねえお姉さん、そのスカート穿かせて! って具合にね。」
その女も和男も笑い転げてしまった。
「ところであんた、あたしが何歳ぐらいに見えること?」
「さあてね、女の人の歳は判断しにくいですけどね、何せお化粧してますからね。でもちょっと見たところでは25、6じゃあないですか、お肌の曲がり角って感じですよ、お嬢さん。」
和男はしてやったりという表情になって、その女性の顔を笑顔で見やった。その女性は[ヌヌ!]と口走り、右足でドスンと床を蹴った。
「生意気な餓鬼やないか。気の利いたとでも思ってるのかい、まだ18、9だろうに、粗忽者めが、そんなことは言うものじゃないってことも知らないようね。ええ、冗談言うのははあたしだけで結構なのによ、その腰を折らないでな。」
そう言って女は一人で苦笑いした。
「失礼しました! 僕はもう20歳ですよ。」
「そうか、トウが立つ寸前であがいているってわけよ、坊やは。煮ても焼いても食えぬ奴だなんて思われたらさぞガッカリだろう、ええっ、口には気をつけな、お若いの。」
そう言って、女は、右手の人差し指を和男の方に突き出して、「ズドン」と低い声でピストルを発射した。
この女が入って来た時から今日は、明らかに和男と接触するために来たのだということを、暗黙のうちに了解していたが、つまり、そういう暗示が彼女の周りに漂っていたが、これはどうするべかと、和男は思った。
「ねえお嬢さん、ハートを射抜くのはピストルではなくて、愛の弓と矢でしょう? 厭ですよ、ピストルでズドンなんてのは。もっと神話的に行きましょうよ、この地は神々の世界なんですからね。」
「またまた余計なことを。どこに神々がいるのよ、それはあんたの頭の中の妄想幻覚の世界でだろう、それがあんたの現実だとすると、重傷の精神病患者ってところね! ところでヤンガー、お名前は?」
「山本和男ってね、一応。ところでお客さん、今日は何にしましょう?」
「今日は作品を買いに来たんじゃないのよ、さっきも言ったけど、あたしと仲良くして欲しいのよ、貴方に。阿寒に1週間いた想い出の一つにしたいのよ、この地の若き芸術家と知り合いになったという。だからお願い、あたしと暫く付き合ってくれないかしら。あんたが暇な時でいいわ、これからでもいいわ、近くを散歩しないこと、天気はいいし、大分寒いけど。」
彼女は向こう気の強そうな顔に心なしか懇願するような気配を浮かべて頼んだ。横柄な無思慮振りは無かった。
「外は大分寒いです、のんびり散歩なんかしたら風邪を引いてしまいます。」
和男は外に出たくない様子で応じた。
「そうかしらね、10分くらいなら平気だと思うんだけど、まあそれは後でもいいわ。それはそうと、あんたは彫り物を創っているの? あったら見せて頂戴。」
「再来年になったら彫り始めるつもりです。今は東京の美大で油絵を描いているだけです。」
 和男は自分の油絵を振り返りながらそう言った。
「画家の卵というわけか、でもどうして今頃ここにいるの、授業があるでしょうに。」
和男はさもうんざりとした表情で大学のストライキを説明した。
「ああ、極東麗華美術大学でしょう、新聞に出ていたわ。学生はすぐにストライキを決め込むものね、年頃なのね、ストライキの。
ええと、今は画家だったわね、それじゃあそこに掛かっているのが貴方が描いたものでしょう、他のレリーフとは図柄もモチーフも全然違うものね。」
こくんと頷いた。
「題名は何て言うの?」
[アガペーの瞑る時]というのです。」
得意げに和男は難解な題名を告げた。
[アガペー]って何のことか知っているの?」
「神性の愛のことです。アガペーが瞑る時は神性の崩壊であり、天は邪悪に占領され、地は荒廃の極に達し、人間は野獣と化し、知性は狂気へと奔るのです、一言で言えば末世になるのです。」
彼は、牧師が説教するような調子でそう説明した。
「随分と宗教的なテーマなのね、驚いたわ、貴方、ひょっとしてクリスチャン?」
和男は否定の合図を送った。
「貴方、現代がその末世だって言いたいんでしょう。貴方は自分では気がつかないようだけど、プロテスタンティックだわね。ルターはこの現世を、悪魔が差配していると考えていたのよ。 資本主義社会は、悪魔のこの世における最後の来襲であり、キリストの再来の前兆であると解釈したのよ。
あたしはそれを一歩進めて、そのようなサターンの支配に終止符を打って、現代社会を乗り越え、キリストの再臨の準備をするのがプロテスタントの使命だと思っているのよ。プチブルはそのために頑張らなくっちゃいけないと考えているのよ。」
彼女は真面目な顔でそう話したので、今までの横柄で逆しまっぽい態度から察するに、この女は真面目にプロテスタントなんだろうと思った。宗教になると真面目になるが、そうでないことには自己中心的なちょうらかしなのは、どういうわけなのだろうか? その手の女の敬虔なクリスチャン振りの本質を知りたいと思った。背反する精神の、内的葛藤とでもいうものが、もしかして苦悩となって現れるかも知れないと思った。
この女の普段の対人態度は、横柄さが眼に付くが、それと敬虔なる精神との間を揺れ惑う意識の本拠地が何なのか、探ったら面白そう、何となく漫画になるようと、和男は笑みを浮かべて彼女を見やった。
「貴女のプチブル根性にはプロテスタント的な意識の裏打ちがあるとは知りませんでしたよ、立派なプチブルというわけですね。でも僕は無宗教ですから、そちら方面の教養はゼロなんで、貴女の話を聞いても良くは解らないんですよ。」
「そう、それは残念ね。ところで貴方、この絵はボスの影響を受けているようね、そうでしょう、誰しも若いうちは偉大な先人を模倣するものよ。」
和男はこの女性が意外にも、絵に詳しいことを知って驚いた。この作品は彼が描いたうちで、唯一ボスを見習って仕上げたものだった。それで彼女に静かに頷いた。彼が素直に認めたのを見ると、彼女は再び自意識過剰気味な面もちに戻った。
「画家の卵というわけか。それじゃああたしの似顔絵を描いて貰えないかしら。」
和男はこくんと頷き、似顔絵用の和紙を机から引き出し、チェコ製の木炭を右手に持ち、客を樺桜の切り株に座らせ、自身は籐製の腰掛けに座り、彼女をほぼ正面から見据え、カルトンの上に和紙を縦長にして置いた。
そして20分もの時間をかけて、彼女にそっくりの似顔絵を完成させた。少し胸に気怠さを覚えた。出来上がった絵が、彼女に生き写しなのに満足して、上機嫌で彼女に手渡した。彼はその代金に千円を受け取った。
「さすが絵描きの卵ね、気に入ってよ山本君。これだけデッサンできれば、きっと成功すること間違いなしよ。」
彼女が俄に煽て出したのが気に入らなかったが、その不満を表に出すことはしなかった。
「ところで、あれらのレリーフは何の木を使うの?」
「栓抜きです!」
「貴方、冗談も言えるのね。」
それは確かに冗談だが、まるっきりの嘘というわけではない。父はいつも材木商に、[栓の木]と言って注文しているが、昔はよく、日本酒の徳利の栓に使われた、柔らかい質で、彫り易い木のことだ。
「格別いい図柄ができた時は、おんこの木を使います。」
そう言って彼は、そのおんこを彫った作品を指差した。
そこに散歩から帰ってきた父が入ってきた。そして、和男が描いた彼女の似顔絵と彼女を見比べてにんまりした。
父はいつも、昼食後30分から1時間ぐらい散歩してギャラリーに戻るのを習慣にしていた。時には自家用のライトバンに乗って遠出をすることもある。今日もそのバンに乗って雌阿寒の麓の野中温泉に浸かってきたのだ。完全な硫黄泉で、おが屑より大きめの硫黄の塊がたくさん出てくる。
「山本君、あんた車運転できる?」
和男は免許を持っていたが、肺病の病み上がりのため、胸に負担のかかるドライヴはしたくなく、首を思案下に横に振った。しかし、相手が尚美だったらOKしたに違いない。
「それは残念だわ、この辺の原生林の中を走ったら、さぞいい景色を堪能できるでしょうに。特に阿寒横断道路は日本有数の景勝地だっていうのに、それは残念だわ。それじゃあこの辺りを一緒に散歩しましょう、店番の人もきたことだし。」
彼女はそう言って和男が外に出るよう催促した。その誘いに乗って、和男はついふらふらとギャラリーの外に出てしまった。彼は根が柔順なのだ。一旦外に出てしまうと、もうこの女と散歩しなければならない雰囲気になってしまった。それでボッケまで行こうと思い、アイヌコタンとは逆の方向に舵を取った。二人は秋深い野辺を散歩に出かけた。そして2、3分歩いてみると、ふいにある質問を思い付いた。
「失恋でもしたんですか?」
「失恋? あたしそんな風に見えて?」
「いいえ、唯ちょっとそんな気がしたんですよ。」
気後れ気味にそう言った。
「そんなこと訊いてどうするの?」
「どうもできるわけないでしょう、言ったでしょう、ちょっとそんな気がしただけなんですよ。25、6に見える若い女性が今時こんな辺鄙な片田舎に一人でくるからには、なにかしらの心の痛手でも負ったんじゃないかってね。」
「そう、いいわ、あたし失恋なんて忘れちゃったわ。それを無理に想い出させようなんていい趣味じゃなくてよ。あんた、失恋の経験がないんでしょう、まだ幼いのね!」
彼女は強気に似合ってきっとした表情で、和男の目を見やってそう、反撃するかのように言った。和男は、彼女の言い分にペーソスがあるなと感じ、年上の人と付き合っただけのことはあるなと思いつつ、下手なことを訊いてしまったなと後悔した。
「でもちょっと寂しいことがあったのよ、お友達と喧嘩しちゃって、独りぼっちになってしまったのよ。」
彼女は今度はしんみりとした表情でそう言った。和男は、彼女が東京で独りぼっちになってしまったということが、妙に気に入った。そして、東京の女とこんなに長い会話をしたのは初めてだが、話し始めてみると、意外にいろいろなことを話せるものだなと吾ながら感心し、悦びに耐えなかった。もっと話してみようと思った。
「貴女の初対面の人への接し方は、少々強引に過ぎますが、意外と喜劇的性格が看取されますね、意識してそうしているんですか?」
「そうよ、良く解ったわね、あんた。あたし喜劇女優になれるっていろんな人に言われるのよ。でもあたしの批評をするなんてあんた僭越よ、若いくせに。」
彼女は自慢げにそう言った。その彼女の目つきが面白おかしく映った。
「ところでお客さん、阿寒にもたくさんの若者がいるのに、どうしてこんな僕を散歩の相手に選んだんですか?」
「それはまず第一に、貴方が一番優しそうに見えたからよ。あたしの接近の仕方に耐え得る素質を持っているように感じたからよ。それと、あのギャラリーには、単なる民芸品店には無い芸術的雰囲気があるからよ。
あたしは芸術というものに、少なからぬ造詣を持っているつもりよ、芸術家には尊敬の念を持っている人間よ。この辺が、芸術嫌いの頭の固いプロテスタントとはひと味違うところなのよ。
それで、若い芸術家とお近づきになりたいいと前々から思っていたのよ、それも雄大なスケールを持つ人物とね。そんなわけで阿寒に来たのよ。そして阿寒湖畔の中から唯一貴方を選び出したというところね、それもじっくりとね、だから悪しからずね。」
和男は、唯一選ばれたということに不思議な悦びを感じた。この高慢な女がそんなことを言うとはと、不思議にも思えた。そんな会話をしているうちに二人は、湯が沸々とたくさんの小さな穴から吹き出しているボッケに辿り着いた。そこで和男は、落ち葉の何枚かを踏みつけて思った、[私は生きている]と。
湖岸近くまでエゾマツ、トドマツ、ダケカンバなどが鬱蒼と茂り、更に湖岸まで熊笹がせせりだしていて、今にも熊が出てきそうな観がある。そんな見慣れた景色の対岸には、いつもの通り、雄阿寒岳がくっきりと浮かんでいる。
「あたしは未来の芸術のアルケオローグの先駆者になりたいのよ。そのために、まるっきりの新人を発掘しに来たのよ。有名になる前に知り合いになっておきたいの、その方が甲斐があるというものよ。」
「美術評論家にでもなるつもりですか? それには、世界を相手にしなくっちゃ。」
彼女は返辞をしなかった。湖岸の空気は相当に冷え込んでいた。和男はその寒さに耐えかね始めていた。冷たい風が湖水の表面を小刻みに叩いていた。和男は、両腕をさすったり両足を摺り合わせたりして、狭いボッケを端から端まで往ったり来たりしていた。
「とても寒いわね、堪らないわ、もう戻った方が良さそうね。」
結局二人は、そこに10分しかいなかった。帰り道、二人は無言だった。そして啄木の歌碑を過ぎ、和人街の端に到達すると、彼女はハンドバッグから名刺を取りだして和男に手渡しながら言った。
「これ、あたしの住所氏名と電話番号よ、いい作品を仕上げたと思ったら連絡して頂戴、買い取ってあげるわ。
それからお願い、お別れのキッスをして頂戴。包容力のある貴方ならそれぐらいいいでしょう? パトロンになるには出会いが肝心なのよ。」
和男はその名刺をジーパンの後ろのポケットにしまいながら、躊躇していた。もしかして結核でも感染させては申し訳ないと思ったためだ。しかし、その時既に東京の女は和男の両腕に縋り付いて背伸びをし、和男の口に自分の唇をあてがいつつあった。それを避ける間もなく、彼女の唇に自分の口が合わさっていった。和男はどうしたらいいのか解らなかったので、口を閉じてしまった。
「あんた、キッスの仕方も知らないのね、何て晩稲の坊やだこと!」
彼女は再び、幾分か嘲笑的で挑発的言葉使いでそう言った。それで和男は、理由を説明する気が無くなってしまった。彼女はつと、ホテルの方に歩いて行った。
それでも和男は、東京の女性と初めて接吻したという快さで胸を膨らませてギャラリーに戻った。その唇の周りにあの女のルージュがくっ付いていることには無頓着で。




N E X T
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