ナルシスのカノン 16
白い春の揺れる風が、透明な光に淡い影を宿し、和男の下宿のダイヤカットガラスの窓にも、鮮やかな光と影のコントラストが、そよぐ蔓薔薇のしなやかなシルウェットを這わせていた。
和男はその彫りの深いカットガラスの窓が好きだった。本当に光がキラキラと輝くからだ。東側に面したその窓は、初春の朝に特別美しい模様を描き出す。もっとも彫りが深過ぎて、所々に小さな穴を作り、風が吹き付けると中のカーテンまで揺れるし、土埃も吹き込んで来る。しかしこの古い木製の枠による窓からは、格調の高さが漂って来るようで、隙間風を充分に穴埋めしている。
それに、時折その隙間から室内に洩れ込む数条の光線と、ガラスのカット面の光の高輝度な白い閃きとがいい具合に調和して、立体的な光と影の交響曲を奏でてくれるので、適度な芸術性として楽しませてくれる。
つい一昨日尚美との共同生活を始めた和男の生き生きした心に、小さな燦めく光の水玉模様や、洩れてくる数条の透明な可視光線が、清々しい光明のような気がしていた。東京でのあまりに孤独だった生活に終止符を打つ明るい光だった。幸せを伴って洩れ入って来る温かな光だった。細々とではあったが、満ち足りた気分の象徴のような光だった。
尚美は、この部屋に入るやいなや掃除から始め、2時間もかけてきれいに清潔にした。そして和男の衣類の入っている洋服箪笥を整理し、彼女の分を入れられるようにした。彼女の分の方が多いのだ。
「女っ気も無いようね、GF(ガールフレンド)がいる様子も無いわね。」
「この部屋に入ったのは、君が2番目さ、1番目は僕の姉さ。」
尚美は憐憫の情を浮かべて微笑んだ。
かくして二人の同棲生活が始まった。3畳の板の間の台所と6畳の和室は、2人になるととても窮屈だった。3脚のイーゼルを立てるのさえ不可能だった。それで和男は、机の上に斜めにキャンバスを乗せて、身を折り曲げ、屈み込むようにして絵を描いた。その机は食卓の代わりにもなった。2人一緒にいる時は、本当に押し合いへしあい暮らしている有り様だった。
春休みなので、連日のように、尚美を連れて、いろいろたくさんある美術館や、画廊、デパートが催している展覧会を見せて回り、それらから感受できる刺激がいかに新鮮なものか、尚美にも理解して欲しいと思った。阿寒や釧路といかに大きな量り知れない差を東京が有しているか、体感して欲しいと念じた。
その一方で、阿寒湖畔の大自然が与えてくれるダイナミックでいながら孤独に充ちた生活にも、かなりの魅力を感じてはいた。しかし、洗練された孤独と幻想を育むには、意外と何かが不足しているように和男には思える。阿寒の大自然は、官能的に隙間だらけだと感じられるせいだ。素朴というか、粗暴というかだと思える。
クロッカスが咲き出している野原を3時間も散歩して帰った二人は、部屋に戻るやベッドに折り重なった。和男は彼女の悩ましい躰を愛撫し、既に冷たくなっているズロースを引きずり下ろし、優しく仰向けに寝せると、尚美も気を合わせ、二人は初体験を飾った。和男には、今日の尚美の肢体が、一段と光彩陸離たるものに感じられた。
尚美は夕食を食べながら、涙をこぼし、和男は一々それをティッシュで拭いてやり、仲睦まじい証を示した。初めての性体験の後では、女性は大概泣くものだという言い伝えは本当なのだなと和男は思った。
「どうお、お漏らししているところを見られちゃったご感想は?」
「まあ憎たらしい、意地悪、貴方があんなスケベルマンだとは知らなかったわ。」
「犬の名前みたいだね。」
「そうよ、貴方の祖先は狼よ、でもそんな気の利いた犬がいるかしら?」
二人は大きな声を出して笑い転げた。
「でも快感だったわ、堪えようと必死になっているのに、その関門を内部から打ち破られて、外に奪われることによって敗北を感じ、緊張したまま堪えられずに流出してしまう際の肉感的快感は大変なものよ、とてものことよ。そこをスカートを捲られて、お尻は天国っていう感じで、涙まで止まらなかったわ。」
尚美は、妙なところまでソフィストケートされているなと和男は思った。
「お坊さんに見られちゃったね、目の保養になったかな、それとも目に突き刺さったかな、現実のエロスが。」
「何か読経していたわね。」
「そうだったね、きっと、[カーマスートラ]だよ!」
二人は又笑い転げた。
夕食後、和男は日記帳を開き、今し方閃いたばかりの詩を一篇書き記した。
ナルシスの夢
白い縁飾りのついた花弁は
しなやかに伸びた二本の雌蕊を包むローブのように
探している蜜蜂を誘惑する
そして春の風に孕まれた少女の園は
水仙の咲き乱れる泉の畔に来るように
憧れる少年を誘う
澄んだ瞳の少年は
白いドレスを纏った雄蕊のように
微笑む花嫁を抱いて囁く
しっとり融け入った春の香りは
絡み合うアンドロギュヌスの洩らす言葉のように
聴き入る夢達の響きのようだと
それともたおやかに震えるドレスの裾は
深く疼いた涙のように
互いの芯を濡らす泉なのかと
微笑む園で白い花弁は
語られた二人の愛のように
淡い姿を水面に浮かべる。
尚美はその詩を読むと、やにわに和男の額に手をあてがった。まだ冬のように寒いのに、春の詩などを書いたので、又微熱が出たんじゃないかと心配したためだ。でも、熱は無かったので、安心した。
「ところで貴方はやはりナルシシストなのね、この詩を読んで再確認したわ。自己陶酔というものは、次から次に沸き上がって繰り返されるものよね。ナルシシズムはカノンのごとくに旋律に乗って流れる美意識なんだわ。
あたしも詩が書けるぐらい勉強しなくっちゃ、刺激でいっぱいのこの東京で。それと精神分析学の本もたくさん読みたいわ。東京には大きな本屋さんがたくさんあるのね、びっくりしたわ。」
「そうさ、阿寒湖畔の街には一軒も無いよ。」
和男はおかしそうにそう言った。
尚美はローズマダーのネグリジェに着替えた。そんな今日の尚美は、いつになく艶めかしく感じられた。和男は、尚美が去年送ってくれた白いスリップを着て、華やいでいた。
−−−恰も彼女が着ているドレスが、女や男の繊細な情緒で織られていて、リアルな性感触を、肩を合わせている和男の肌に与えずにはおかないという風だった。その肌触りこそ、和男が求めているマチエールだった。
実際に肌に感じる織物のうちに、精神的な次元にまで高められた思考が肉体を超えて、揺れる愛の建物を打ち立てる。
男の粗雑な肌感覚に、きめ細かく調合された女性ホルモンの効能が、今日ほど発情的冴えを示した日はなかった。
それは今日の尚美が、粗雑な和男の肌を刺激したり、和男に刺し貫かれたり、そうすることに対する献身の受苦に、純粋な女性の本能を提示したように思われた。それは彼女が、女性の肌や肉体の魅力を、自分の物にしたがっている男の肌を悟ったからだし、和男の性の衝動や眼差しを察し得たことによるのだろう。
女になろうとする、生理的にも精神的にもそうなろうとする想いを、彼女はどういうわけか会得したに違いない、そう和男には思われた。−−−
和男は初めて全面的に尚美を所有した想いで胸をときめかせた。
その夜、若い二人は、三度も抱き合った。そしてこれから先ずっと、充実した満足感に浸れるという約束を得たような気がした。
その次の日、和男は久しぶりに病院に行き、胸を透視する機械で診て貰った。その結果、すっかり治癒していることが判明した。しかし、念のために医師は、2週間分の抗生物質を処方した。そして、抗生物質は性欲をぐんと高めるので、性行為はほどほどにしないと病体には響くので、注意するよう求められた。
和男が病院に行ってる間に、尚美は考えた。まず同棲することに成功した。肉体の関門も目出度く通過した。後は両方の家族を納得させることだ、早いところ。尚美は、和男のためには、ナルシシストにお似合いの自己陶酔に浸らせてあげなければ、いい芸術作品は出来上がらないだろうと思えるので、その練習もしないとと心した。
和男がアパートに帰ってみると、水仙の花が花瓶に活けられていた。そんな尚美の思いやりが殊の外嬉しかった。水仙が咲き乱れる泉でナルシスは、エコーを掴まえて満足気だった。昼の光がそんな幸せそうな二人を造形的に浮き彫りにして、輝かしいシルウェットを添えていた。
3日前に空いた隣の部屋の掃除や畳替えも終わったので、次の日、尚美がそっちに移った。勿論和男も手伝った。その間にタイミング良く、釧路の尚美の家から大きな荷物が届き、2人は黙々と整理した。荷物の1番上に手紙があり、3日後の土曜日に、様子を見に、父が上京するので、羽田まで迎えに来るようにとあった。
それから二人は、食卓と椅子、ガスレンジなどの必需品を買いに行った。食事は尚美の部屋ですることにし、寝るのはそれぞれの部屋でということになった。
まだ駆け落ち気分が抜けきれず、スリルのある楽しい生活を送っていたほんの短かかった日々にも、早転機が迫っているように予感された。
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