両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  12


 そこへいよいよ彼女が入ってきて、さっそく絵を拝見したいと言うと、和男の緊張は最高度に達し、和男は少し震える手で風呂敷の結び目をほどいた。そして同じく震える声で、「これです」と言って、彼女の目の前に木枠に収められている2点の作品を並べて提示した。
「この絵の娘は[フィギュラ・セルポンティナータ]だわね。」
彼女は、『生と死の狭間に』という題名の方の絵を指差して言った。
[アンギーズ]はお好きですか?」
すこし気後れしていた和男は、何とか話をもちかけて、精神的に対等になれるよう精一杯努めて話した。
[アンギーズ]って何よ、そう気取らずにおっしゃいな。」
彼女は何か試されているのではないかといった、不快感を顔に現した。和男はうまいこといったと、少し勇気が出て来るように感じられた。
「ラテン語です。[セルペンス]とも言います。フランス語で[セルポン]、ドイツ語では[シュランゲ]、日本の古典では[くちなは]とも言います。」
和男は得意げな表情で、しかし真面目くさった言葉遣いでそう言った。
「ああ、[サーペント]のことね、これでしょ、[スネイク]よね。」
彼女は右腕の肘から先を上に立て、手首を曲げ、指を揃えた手を左右に振って、蛇の真似をした。それから一言付け足した。
「そんなもの好きなわけがないでしょう!」
何てことを言う餓鬼かという表情でその女性は、和男を見下して言った。
「それは中途半端ですね。」
和男は自分でも何言っているのか解らないぐらいどぎまぎして、何とか対話を繋いだ。ただし、思い付く言葉が吾ながらナンセンスだなとは感じていた。すっかりあがってしまっているのだ。
「坊や! いくら[蛇状曲線]が官能的で好きだからといって、蛇自体が好きじゃないのが中途半端だなんて、いくら何でもそれは極端というものよ、過激派と同じよ。
まさか坊や、蛇の愛好家で、出かける時も鞄に忍ばせているんじゃあないでしょうね。もしそうだとしたらうんとマニアックな変人よ。彼女は背を乗り出して、和男が鞄を持っていないかどうか確かめ、和男に即刻返辞を欲しいといったジェスチャーをした。
「それならここにいます。」
と、和男は立ち上がって、ジーンズのベルトを手で示した。
「厭な趣味ね。」
とパトロンは和男を睨んだ。
「本当のことを言いますと、そう思えるだけなんですが、僕の深層心理には蛇が巣くっているらしいんです。そして僕は疎外感に苛まれているんです。すると何故か、どうしても最も深刻な自己暴露的作品を創り出すようになるんです。それで僕の深層心理にとぐろを巻いている蛇が頭をもたげて、[セルポンティナータ]という曲線になるんです。
でも、蛇が大好きだという程ではないんです。怖い生き物だと思っています。夢の中なんかで草叢を歩いていると、蛇が出て来て、噛みつかれるんではないかという恐怖心が沸き起こる程です。ですから、蛇を飼うなんてことは夢にも考えていませんので、ご安心下さい。」
「とは言ってもあんた、蛇についてはいろんな国の呼び名を知っているのね、それだけでも充分変人よ。もっとも芸術家なんて人種は多かれ少なかれ、一般人には想像もつかない奇抜な性癖を匿し持っているものよ。たまたまあんたは蛇にご執心っていうところよ。 でも、ラテン語とは古いね、そんなものはどうだっていいんだよ、生意気言うんじゃないよ! 若いくせして爺むさいんだよ!」
と、パトロンは、声を荒げて、この餓鬼! と、不満を表した。
「どうも失礼しました。」
和男は柔順に頭を下げた。それを見てパトロンは機嫌を直し、
「まあ、いいわ、この2点はなかなかいいわ、買ってあげるわ。」
と言ってくれた。
「ハハア、本当ですか、有り難うございます、とてもうれしいです。」
和男はホッとして素直に悦んで、又頭を下げた。
「この絵のモチーフはですね、暁の女神(エーオース)が東の空から薔薇の肢体状に、生気いっぱいに光を放つ頃に、死に逝く若い娘さんが、氷の城の中の一室に身をくねらせて横たわっているというものなんです。」
女性は腕組みしながら、絵を見つめ、和男の説明を聞いていた。
「ふーん、死に逝く女性ね、でもこの女性はまだうら若いし、柔らかく躰をしならせていて、健康的に見えるわ。死に逝く娘さんには見えないわ。そう、その題名が似合わないのよ、『生と死の狭間に』っていうタイトルは変えた方がいいわ、例えば、『暁に眠る女神』っていう方がずっといいわ。
もっとも坊や、親しい娘さんの死を経験したことがあるの? それなら話は別よ、記念碑だものね、でもその絵を売ろうなんて逆しまよ、裏切り行為よ、買わないわよ。」
彼女は眉を吊り上げてそう言った。
「ええっ、[忌年碑]? いえ、僕にはそういう経験はありません。僕としても、もしそういう絵であるなら、売りはしません。唯僕は、死の衝動に囚われているのです。」
「そう、ならいいわ。」
「永遠の別離は果たされる。そしてそれは束の間の、内部に向いて生と折り重なり合うように憩い合う死の魔の手がいつか、勝利の瞬間を迎えるまで、安らかに眠っていたいと欲しながら、尚も静かに待とうと心するのです。死が訪れる時、それは神聖な休息の始まりであると同時に、暗黒の無の世界へ踏み入る最初の足跡なのです。
その最期のステップにある人、その人は神による浄化を欲しつつ、尚も生の衝動に浸りつつ、生への執着にすがりつきつつ、内面に欲求を持ちつつ、すなわち生と死の狭間に身を置きつつ、奇蹟を望みつつ、冷静さと、死へと誘われることの最大の恐怖から来る狂気が同居しつつ、自身のそんな内的精神の相反する要素に身を焦がすのです。
そして汚れ無き乙女の死についてほど、寂しさと敬虔さと深いクラーゲを誘うものは他に無いと思います。そういうわけで私が描いたこの絵は、今一度生々としたいと願う乙女の最期の肢体なのです。
こちらの絵は、『埋葬』というタイトルです、こっちも死に係わるものです。小雨の振る中、墓石がしっとり濡れ、その表面には蔓薔薇の蔦が覆い、石面に浮かび上がって来る死せる少女の面影に、ここだくの露が宝石のように煌めいて見えるような意匠になっています。蔦の葉越しの石面に映る少女のデスマスクに、彼女の生前の有り様を発掘しているという違いがあるのです。」
和男は一気に、二作の見るべき意匠を述べ立てた。彼女は腕組みしながら憮然とした表情で聞いていたが、何やら感心できなかったようだ。
「坊や、講釈を聞かなきゃ内容が解らないようでは絵画作品とは言えないものよ。アブストラクト(抽象絵画)はともすると口弁に頼りがちなものだけど、それではアブストラクトどころか、オブストラクトになってしまうものよ。
絵というものは、その絵に託した視覚から、内面的情念的感覚を掴むというのが筋道で、前もって釈明を聞いてから眺めるというのは、倒錯というものよ。下手な先入観年は百害あって一理無しよ。まるでわけの解らない文人画のお説教を聞いているみたいだわ。辛気臭くて我慢がならないわ。静かにしててくれる、あたしが自由に見られるように。」
パトロンは20分かけて2作の絵を見やっていた。
「こっちの『埋葬』というテーマの絵は幽霊が出ているって感じね。こっちもタイトルは変えた方がいいわ、『死霊を夢見る男の眠り』ってね。そっちのは、さっきも言ったように、『暁に眠る女神』よ。」
そう、彼女は決めてしまった。それで、和男も頷いた。
「あたしとしては、あんたの名が画壇で有名になって貰いたいのよ。将来あんたの作品の値段が上がるのを待つんですからね。この2点は幻想画としては合格よ、どんどん描くといいわ。
あんたぐらいの年頃の子は大概、埋葬とか墓標とか思い込むものよ、その点から見ると年齢並だわ。メルクマール的作品ね。
ところで坊や、今までに何人埋葬したの?」
「はい、5、6人です。」
「おお怖ろしい、そんなにたくさん、殺人鬼並だわ!」
 女性は身震いしてジョークを言った。
「まだまだですよ。一流の芸術家になるには。」
和男は苦笑いしたが、冗談で返した。
「あんた、展覧会にも出品しているんでしょうね、定期的に。」
和男は軽く頷いた。
「何て言う画壇なの?」
[日本薔薇十字会]といいます。」
「薔薇十字団と言えば、16、7世紀にヨーロッパ全域に興亡した幻の宗教団体じゃないの。あのデカルトでさえ入団したと言われているわ。団員は万病に効く薬を作ることができ、全ての卑金属を金に変えるという錬金術を心得、年に1度、普通の人には見えない霊なる館に集まり、崇高なる話をし合ったと言われているわ。
特に彼らが探求したのは、最高の神秘を持つ人間自身であり、人間精神の生み出した物と、生命の秘密に深々と瞑想し、天子と霊の助力を得て、又長い経験と観察によって、[神の智慧]に目覚めたのよ。
それが今頃になって日本に現れ、公然と人々の眼に付く美術館で展覧会を催すというわけか、随分と趣向が変わるのね。霊的不死鳥を求める彼らが、その死の衝動をどう抑えたか、あたしとても興味があるわ。絵画も不視の視覚の産物かしらね。」
「はい、僕は、死の衝動に駆られながら、半ばそっちに引き付けられつつ、何とか現世的懊悩に留まりながら描いているんです。微妙なバランスです。」
「死の衝動に耐えながら描いているなんて、大分物狂おしい言い分よ。あんたはまだ20でしょう。少なからず背伸びしていて生意気よ。死の衝動だなんて大袈裟よ。
 白状なさい、本当は生の衝動に身を焦がしているんだと。生の衝動には抗えない魅力があり、あんたはその虜になっているんだと。」
「はあ? 性の衝動?」
彼女は一息入れ、ケーキにフォークを入れて食べ始めた。それで和男も見習った。1年半振りに食べるケーキが、妙に美味しかった。柚の味がするもので、脂肪分が薄かったので、洋菓子など滅多に食べたことのない和男の味覚にも適していた。二人は黙々とケーキを食べ、それから珈琲を飲んだ。
この女性は、19世紀末にヨーロッパで流行った、倒錯的[薔薇十字展]については知らないらしいなと和男は思った。




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