両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  15


 和男がちょっと横を向くと、面白い光景が目に入った。和男達と同じぐらいの年齢の男女が向かい合って座っているのだが、女の子はテーブルの下でスカートの裾を持ち上げていっぱいに広げているのだ。それを男がちらちらと覗いているのだが、奥までは見えないらしいのだ、テーブルのせいで。しかし、和男と尚美には、股間まで見えているのだ。
「あの娘、完全に神経症よ。」
和男も頷いた。
「ねえ、尚美、僕の絵が商品になったんだよ。パトロンになってくれると言った例の女性が、2作買ってくれて、15万円ほどくれてね、それで僕はパソコンを買ったんだ。僕の描いた絵をデジカメで写真に撮って、それをパソコンに入れてCD盤に録画して、それで、これは何年に描いたもので、何というタイトルだとか、誰々に売ったとか、そしていくらだったかも記録すると、簡単に管理できるし、音楽だって聞けるからとても便利なんだ。」
尚美は暫しの間、焼き餅を焼いている目つきで和男の眼をじっと見つめていた。
「貴方、本気であの高慢知己な女をパトロンにするつもりなの? 自分で自分の自尊心を傷つけるようなものだわ。
あの女、まるで男に飢えた狼みたいに貴方の唇に食いつくみたいに口を貪ったわ。」
「そうなんだ、僕に有無を言わさず挑んで来たんだ。」
「じゃあ貴方は異議を唱えるつもりだったの?」
「そうさ、有無を言おうと思ったのさ、結核だから口づけは遠慮したいってね、つまり良心の問題さ。」
「それじゃあ貴方は心の中ではあの女のキッスを宥していたのね。」
そう言って、尚美は膨れっ面して和男を睨んだ。和男は困ってしまった。
「君は問い詰めるのがうまいね。」
「あら、そんなつもりはないわ、唯あの女が憎いだけよ、何しろあたしよりも先に貴方と口づけしたんですもの、憎いは、それもあたしの目の前でよ。」
尚美は遂に、嫉妬の念を抑えきれずにそう言い出したので、和男は目を白黒させてしまった。しかし、何て純心な娘だろうかとも思えた。尚美はすっかり自分に夢中なのだということが解り、満足の至りでもあった。
「心配するなよ、僕は彼女をパトロンとして以上に接するつもりはないからね。」
尚美は一安心したという顔付きになった。しかしすぐに、本当かしらと訝し気に、和男の目から本心を読み取ろうとした。
又々尚美の嫉妬心が花咲いたと思い、和男は控えめに苦笑いした。
「僕は今のところ、君以外の女性とは一線を画しているってことだけは真実だからね、僕が女の子で好きなのは君だけだよ、本当。」
それを聞いて尚美は目を潤ませた。それからきらりと輝いた。一つ一つ心配事が消え、嫉妬心も薄れて行く有り様が、彼女の目から読み取れた。
その時、隣のボックスに座っていた例の男女のうちの女の子が、右手を出して、男に下を見るように誘い、再びスカートの裾を高く持ち上げ、男はテーブルの下に身を屈め、彼女のしどけない股間を見やった。
尚美は、[ああ]とつぶやいて両目を突き、後ろに失神してひっくり返る動作をした。和男はその動作に満足した。そして身を乗り出して、尚美を抱き起こすと、彼女の耳に口を寄せ、
「あの娘は神経症なんかじゃない、娼婦の狼女だ」
と囁いた。尚美も頷いて笑った。隣の男は二言三言相手の女に声をかけて、
「行こうか!」
と言って連れ立って行った。
「あの二人どこまで行くのかしらね?」
「決まってるじゃないか、あの女はプロだ。何とかの小部屋に行くのさ、四つ足になりに。」
「末怖ろしい娘だわ。」
二人とも、娼婦がこんな間近で、あんなことして客引きしてるのを見たのは初めてで、衝撃的だった。
「あの娘、スカートの中はスッポンだったね。」
「ポンが抜けてるじゃない、スッポンポンよ。」
「だってポン引きだもん!」
二人は大笑いした。
尚美は、東京に行くと、言葉遣いもジョークもこうも上品になるのかしらと、ショックを受けた。1本取られたと感じた。タイムリー嫉妬だった。
話題を変える転機だった。
「そうそう、僕は今年の春休みに上野の美術館で開かれる[日本薔薇十字会]の展覧会に、2点出品するつもりなんだ。F50号のを2点ね。」
尚美は目を閃かせて興味があるというシグナルを送った。
[薔薇十字展]と言えば、半分倒錯気で世紀末的な団体よね、かなりデカダンよ。するとやはり貴方は倒錯趣味があるってわけよ、ファンタスマよ、[パラフィリア]って言うのよ、病名は。貴方のお得意のね、是非見たいもんだわ、その展覧会に連れて行ってよ。」
「うん、一緒に行こうよ。」
和男は苦労してさり気なく応えた。しかし尚美は、崇高で気高い[薔薇十字団]については何も知らないらしいなと思った。それで付け足した。
「薔薇十字団というのは、崇高な人物だけで構成されていたんだよ。[自然の最も深い神秘を見抜き、自然が、新しく生まれる病気の薬を与えるように、現代の世界の哲学体系の病気を治す薬を提供するものであり、彼らの秘密哲学は、全ての精神能力、学問、芸術の総体である知識に基づいている]んだって。」
和男は、パトロンに薔薇十字団についての知識を教えて貰った後、興味が沸いて、本を1冊読んで、今の言葉を覚えていたのだ。
かなり気分がいい対話をしたためか、少し心が優しくなり、和男の目はかなり受容的に見えた。そんな不注意な和男の目つきに尚美がいち早く気付き、からかった。
「又ね、和男さん、うっとり見つめて、まるで女の子の目つきだわ、いよいよ怪しくなってきたわ。貴方は男の服装をして、女の子の目つきになって、他人に見られるという、1人2役を演じているのよ、それも神経症の一つよ。」
和男は慌てて目元を引き締め、目つきを鋭くなるよう意識した。彼は、心の底で心配していた。生まれて来る子が男の子だったら、和男と同じようにお腹に子宮が生えるのではないかと。それは家族中の秘密事項だった。
それにしても和男は、自身の女性的眼差しに自分自身面食らうことが多々あった。そんな彼の心の中を見透かしたかのように、尚美が言い足した。
「性倒錯気な貴方には、普通の人ならコムプレックスを感じるだろうのに、貴方は拘らないのかしらね。きっと心の底では悩んでいるんじゃないかしら。表面と内面は裏腹なものだものね。
倒錯の露出と隠蔽は一対のものだもの、貴方はそのアンビヴァレンツの虜になっているのよ。」
尚美は、再び精神分析学の楽しみを和男から引き出して満足気だった。
「ねえ、尚美、君に向いている講座のあるカルチャーセンターもあるんだよ、東京には。例えば精神分析学の講座や、絵を書く講座や、外国語のなんかも、そこに通ってみないか、せめて2、3年。お茶の水というところにあってね、[文理科学院]という名前のカルチャーセンターでね、君にはピッタリだと思うよ。
早い者順に受け付けていてね、試験もないし、受講できれば、とてもいい教養が身に着くよ。そこで頑張ってごらんよ。熱心に通えば、のんべんだらりと大学に通っている連中よりか、みっちりと知識が身に着くよ。」
「そう、それは耳寄りな話だわ。あたしもそういうところで知性を磨きたいと思っていたのよ、前々から。お茶の水といえば、いろいろと大学がたくさんあって、若者が多いと聞いているし、活気がありそうね、是非行きたいわ。」
和男は頷き、ちょっと咳き込んだ。
「和男さん、大分悪いんじゃない? 阿寒は寒過ぎるもの、すぐに東京に行って静養した方がいいんじゃないかしら。あたし、貴方のそばについていてあげるわ、もしお嫌でなければ。」
尚美の申し出に、和男は目を輝かせて、OKの合図を送った。
「じゃあ、1週間したら一緒に行こうよ、東京へ!」
二人は同時に目で受け容れ合った。姉の結婚式の次の日に尚美と駆け落ちの約束をしているのが妙な気もしたが、これも縁なのだろうと思った。二人は喫茶店を出て、ディープキッスをした。彼女と初めてのリップビターンだった。


和男は阿寒行きのバスの中で胸をわくわくさせていた。そして思った。尚美と一緒なら、自分がどっぷり浸かってしまっているナルシシズムを、いい方向にもって行けるに違いないと。自分自身には、しごく内緒に想念を告白するような行為に耽るのが良さそうだ。そう、尚美を鏡にして。それが芸術作品への導火線になるような気がする。
今までの和男は、自分自身にも打ち明けるのを怖れるようなことが多かった。その、自分の本質的意匠を隠蔽してゴミにしてしまうのを何とか堪えて、そこに、幻想的観念に充ちているモチーフに磨きをかけてみたい。尚美の反応に触発されそうな予感がする。
自分自身にさえ隠蔽している想念を抽出して、作品にすること、それが緊急な課題だ。こういう風に、ナルシシズムと自閉症によって自己の内部に押しやられているものを、モチーフ化するには、精神分析的手法が必要だろうと、和男は感じている。それを尚美に期待できそうで嬉しいのだ。その内実に気付きたい。
社会の中でネガティヴに構えている人間の、唯一可能な社会性を持つ脱出口のような気がする。ナルシシズムが貢献できるのは、それにまとわりつく幻想の諸側面だ。ナルシシズムに陥る人は、現代ではたくさんいるようだが、その結果のめり込む芸術的側面には、相当大きな芸術的価値があるように思える。それは大事にしたい。
それは、自分のモチーフを描くことができれば、ネガティヴをポジティヴに変革させるに充分だ。孤独でもいいから、そういう意匠を表出することだ。そうなれば、自分の存在感をアファーマティヴに転換することができるに違いない。是非そうなりたい。
欲求は底を知らない、深い喜びの深淵を知らない。全身全霊をあげてその目標に接近することこそ肝要だ。




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