両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  10


 11月も終わりに近づいた日曜日の朝、いつもより1時間ほど余計に寝ていた和男は、長い夢を見た。
[私は白く真っ直ぐな道の上を歩いていた。私の影は長かった。太陽は西の方にあったが、それはまだとても強烈に白い路面に輝いていた。そのお陰で、私は白日の下照らし出されていた。
私の視界には、一人も人間はいなかった。回りには家も無かった。在る物といえば、幾枚かの枯れ葉と、4、5メートル先まである数本の木で、それらは前に行くほど低くなっていた。後ろを見やると、そこには大きな森が近くまで迫っていた。
私はその緑濃い森をたった今出立してきたところだった。葉達の作る空間や、たくさんの緑色した空気の帳(とばり)が、輝かしい光を受けていた。そして次に、その森は大きな濃密なヴェールのように思われた。その緑色した空間は、深く澱んでいた。その光景は私を息苦しくした。近親憎悪だった。私はそれに耐えることができなかった。何故といって、嘔気(はきけ)を催すからだった。
それから私は信じた、私の青春時代を過ごしたその森を離れねばならないと。男らしく生きるために、現実の世界の中で自身の世界を見つけなければならないと。私が生きて行ける場所はどこにあるのだろうと自問した。
私は道の上を歩き始めた。私自身が気付く前に、白い道の上の白い街の中にいた。全ての家は閉められていた。街には誰も見当たらなかった。壁の白さで、太陽の光に家々が照らし出されていた。太陽は空の西方の場所を動かないでいた。
幾人かの声が閉じられている家の中から聞こえていた。この街に人々が住んでいるのは確かなことだった。なのに私には、人々を見ることはできなかった。私は唯、自分の長い影を見れるだけだった。家々の白い壁は、人を撥ねつけるかのようだった。門は、中に人を入れないためかのようによそよそしかった。
白い道の上で、そして輝かしい光の下で、私は完全にヴェールを取り除く。私は自身の孤独を確認した。私はその街に留まることはできなかった。再び私は、白い道の上を歩き始めた。その白い道は、死の彼方まで続いているように見受けられた。
いつしか私は、草原の中の水のきれいな小川の畔の土手に辿り着いた。私はゆっくりと流れている水の表面を見つめた。そして水の中に姉の顔を見つけた。その顔は光の数滴の滴で飛び散った。その目を私は冷たく見つめていた。そして私は、彼女の言葉を憶い出した。


−−−地平線を見ることが出来る平原の中で、そして私が私としかいない時、太陽だけが私の存在を肯定しているように思える。−−−


この印象深い、そして夢にしては一連の関係の密接な、それと共に、主語と述語がハッキリしている点で、欧米語から翻訳したかのような文体の夢の内容を、和男は日記帳に記した。眠りから覚醒しかかっている間に、彼は印象的で筋の通った夢を見る癖があった。
その日の夕方、和男が、日曜の夕方にいつも行く[満腹亭]に食事に行こうとして外に出た途端、姉のゆかりがアパートを探しているところに行き当たった。彼女は和男の具合を心配して、1週間ほど世話をするという方針で阿寒から出て来たのだ。
 姉のゆかりは、来年の2月に北見の材木問屋の内に嫁入りすることになっていて、心持ち浮き浮きして見えた。和男は満腹亭に行くのを止めにして、スーパーマーケットへ彼女を案内した。
今日は、ピーマンに詰めたハンバーグやレタスにトマトにみずな、そして炊き立てのライスと豪華だった。久しぶりに家族の自前の手料理を食べる好機だった。和男は舌を鳴らして期待の大きさを表現した。姉は料理が上手でとても美味しかった。
これまでほとんど使ってなかった冷蔵庫も、野菜や肉やバター、チーズ、そして牛乳にジュース、果物などを保存するために働きだした。
次の日、和男が学校に行っている間に、姉は部屋の整理整頓を済ませ、部屋中に散らばっているタブレットやパレットやイーゼルや書籍を、然るべきポジションに戻した。姉の要求で、和男は1時には寝て、朝は7時には起きるようにさせられた。
それまで夜半の4時頃眠りに就くのを習慣にしていた和男は、2、3日眠れなかった。明日のために眠ろうと焦ると、余計目が冴えてしまい、眠りにトライするという感じになる。眠ろうとすればするほど眠れず、疲労感が出て来てしまう。しかし、隣に寝る姉に遠慮して、横になっていた。寝ようとしても眠れないのがこんなに苦しいものか、和男はびっくりしてしまった。
和男は決心して、大学の医務室で睡眠剤を貰おうと出かけたが、看護婦さんに、それは学生相談室に行って下さいと言われ、行ってみた。そこの部屋は、神経科や精神科の医師が来て、カウンセリングをするのだ。そのことに彼はショックを受けたが、仕方無かった。自閉症を突っつかれるのではないかと心配だったせいもあるが、見るからにおかしな学生が罹っているので、心底驚いた。その仲間入りになるとはと、ガックリきた。何とかしないといけないぞと強く思った。
カウンセラーは、家族との関係はどうかとか、兄弟とはとか、友人関係とか、幼児期にどんなことで悩んだか、既往症はなど訊きだして、カルテに記し、やっと睡眠剤を処方してくれた。1週間後に又来るようにとのことだった。和男は、友人は数名いると嘘をついたが、医師は和男に自閉症の兆候を診て取ったようだった。
睡眠剤の他にも薬を飲むように言われた。睡眠剤は良く利き、横になるとすぐに眠り込んでしまった。その代わり、朝起きるのがとても難しくなってしまった。7時はおろか、10時12時までも眠くて堪らない。お昼になると姉にほっぺをひっぱたかれ、布団を剥がされてやっと起きるという有り様だった。
 朝食後に飲む薬は、気分を浮揚するためのものらしく、電車に乗っていると、自然に笑いがこみ上げてきて、一人でクスクスと笑い出すので、吊革につかまっていると、前に座っている人が気味悪がってどいてしまうほどだ。見るからに鬱病に見える若いのが、何故か、鬱の表情のまま苦しげに、ウッハッハとするのだから、普通の人は怖くなって当然だ。薬を飲んでいることは、姉には隠しておいた。言えば、飲むことに反対されるに決まっているからだ。
姉が来てから早くも1週間経った。最後の土曜日の朝、和男は必死の思いで早起きした。和男の目覚めは日記風だった。主語は[私]になったり、[和男]になったりした。
窓辺に蔓薔薇が揺れていた。目覚めたばかりの私の心も揺れていた、ついさっき見た夢の名残でもあるように。 −−−愛してるわよ、でも−−− と手を振って遠ざかって行った尚美の姿が妙に気になっていた。
もし彼女が私を愛しているのなら、近々東京に出て来るに違いない。出て来ないなら、こちらから出向いて行かねばなるまい。そして私の存在の重みを印象深く彼女に与えねばなるまいと思われる。
姉が朝食をを作って運んで来た。卵大の大きさのチーズと、人参と長ねぎの千切り、それにトーストとジャムと農協ジュースだった。和男はダニエル・リカーリのスキャットをCDラジカセで鳴らしながら、フォークとナイフを手に取った。
姉は、昨夜和男が尚美宛に書いた手紙の中の、失敗したページの幾枚かを持って、素早く黙読して苦笑した。
その間に和男は、チーズの塊をフォークとナイフで削り、尚美の彫刻作品を創りながら、削り落としたのを食べた。それだけでは足りないので、人形の中を下からほじくって食べ、外観を残した。


−−−まだ尚美さんのことを思っているの?−−−
ゆかりは単刀直入にそう尋ねた。和男は軽く頷いた。そしてジュースの水面を見つめた。
水面に尚美の顔を浮き出させようと試みた。しかしなかなか見出せなかった。そこで、一つの眼を見つけた。しかしそれは尚美のではなく、彼女の顔を追い求めている自分の目だった。その眼差しは氷のように冷たかった。その冷たい目を打ち消すかのように彼はグラスを揺らしてみた。数条の円い波の輪が中心から同心円状に拡がって行った。彼の目が水面から消えた。さっきの眼は、私には似合わないと和男は思った。
今度こそ尚美の顔を描き出そうと思って、再びゆるくグラスを揺らした。しかしまだ、彼女の顔は映像として水面に浮かび上がって来なかった。
それでも諦めのつかない和男は、次に窓辺に這わせてある蔓薔薇の小枝をナイフで切って、青春の棘でいっぱいの小枝でジュースを掻き回して波を立たせた。すると漸く尚美の顔が、水面より下の方に沈んだ所に現れた。
その顔はどこまでも無表情だった。青春の棘に歯向かうように硬かった。どこを見ているのか解らないような眼差しだった。焦点が遙か彼方にあるかのような視線だった。和男の眼など問題にしていないかのごとき眼差しだった。
ひょっとすると尚美は、冷たい女なのかも知れないと、ふと和男は思った。そんな風に感じられるほど、尚美の視線は夢幻の彼方に焦点を合わせ、その途中にある生身の肉体が有する眼差しを看過し、その眼差しを冷たく凝固して滑り抜けて行くかのようだった。
彼女の顔はどこまでも無表情で硬く、和男の問いかけを無言のうちに撥ねつけるようだった。和男はそれで、何とか尚美の表情に潤いを与えようと試みた。しかし失敗に帰した。何度努力しても徒労に終わった。
しかし、ダニエル・リカーリのスキャットが、女の人が身を捩るかのような悲しみの旋律になると、和男は尚美の顔を見ながらジュースを飲み始めた。するとやっと、尚美の顔は音楽に合わせて、悶えるように捩れて和男の口の中に入って行き、和男は快感に喉を鳴らして尚美を飲み込んだ。
やっと尚美を飲み干した思いで、和男は満足感を覚えた。さっきチーズ像の中身を、恰も尚美の内実を食べ尽くすかのように食べた後で、今度は外見をも料理して、身体の中に取り込むかのように、ナイフとフォークで食べてしまった。すると、尚美を全面的に取り込んだような、甘い感慨に浸った。彼はその心地よさにうっとりとし、そしてにんまりとした。
−−−和男、あんた、薔薇の枝でジュースを掻き回すなんてずいぶん気障な真似をするのね、でも薔薇の棘には毒があるっていう話だから、あまり勧められることじゃないわよ。その毒に当たったらいちころよ。あんたの好きなリルケも薔薇の毒に当たって死んだのよ、気をつけなさい、そんなことにならないように。−−−
それから姉は、目つきを男っぽくするように注意した。和男は学校に行く準備をした。終わると、姉は紅茶に生クリームを少し入れて持ってきた。
「真昼の赤い海の空に白い雲がふんわりと浮いているみたいだね。」
和男はそう評して飲んだ。
「早く行かないと遅れるわよ、雲の上を飛ぶようにしていらっしゃい。今日はお昼まででしょ。早く帰ってらしゃいね、昼食の用意はしておくから、真っ直ぐにね。」
和男は「死刑台のメロディー」を口ずさみながら玄関から出て行った。こんなに豪勢な食事ができるのも、姉がいた間だけだなと思った。
昼過ぎに学校から帰ると、姉はフレンチトーストに珈琲を用意して待っていた。そして尚美から送られてきた、薄いが大きな封筒が置かれていた。とても軽かった。何だろうと思って封を切ってみると、何と純白の、裾にフリルのついた可愛げなスリップが入っていた。和男は肩紐に手を通して躰にあてがい、バレリーナのように踊る動作をした。
「馬鹿!」
と姉は和男の頬を叩いた。
「男が女になる病気の手伝いをしようなんて、とんでもない娘だわ、もう付き合ってはいけませんよ。あんたはウェストの位置も高いし、くびれて細いから、着れるかも知れないけど、駄目よ、倒錯しては、これはあたしが処分しますからね。」
そう言って、姉はそれを取り上げてしまった。和男は尚美の手紙の次の件(くだり)を姉に見せた。
[今日は和男さん、お元気ですか、胸の病は治りましたか。昔西洋では、愛する女性は、愛する男性に自分の下着を送って着て貰ったそうです。ですから貴方もそれを着て、いい絵を描いて下さい。、、、]
和男の期待は虚しく消え、姉はスリップを封筒にしまってバッグに入れてしまった。和男は姉を送って、羽田まで行った。
「来年の2月に結婚式を札幌でやるんだから、その時は必ず帰って来るんですよ。規則正しく寝起きするんですよ、あたしと一緒に就寝した時間を守るんですよ。」
 そこで和男は軽く咳払いをした。
「まだ咳が出るの、心配ね。徹底的に治さないと駄目よ。夏みたいに学生運動に加担したら、今度こそ不治の病になってしまいますよ。休みになったら、一目散に阿寒に帰って来るんですよ、いいわね、約束よ。」
そう言って、姉はゲートを入って行った。和男は、ゆかりの乗った飛行機が離陸するまで屋上から見つめていた。飛行機は上空に浮いていた白い密度の濃い雲の中に吸い込まれるようにして消えて行った。幸福になって欲しいと祈った。
姉が帰ってしまうと、途端に、和男の生活のサイクルは自分流に戻ってしまった。




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