両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  14


 今年に限り、12月の30日までと1月いっぱいまで授業が行われ、和男は、姉の結婚式に出るために、2月の初旬に阿寒に帰った。
街は完全に氷に閉ざされていた。そして夜の2時頃、阿寒湖の両岸から氷の褶曲が中心へ向かって躙り寄り、湖のほぼ中央で両方の褶曲がぶつかり合い、ゴーンという大きな音を立てて帯状に氷が盛り上がる夜が来る。
和男は聞き慣れていたが、その夜もその音で眼を醒ました。それは姉の結婚式のために札幌に行く前夜だった。二人の結婚を象徴するかのような出会いだった。
姉の結婚式は札幌の教会で無事終了し、披露宴もその建物に付属している会場で行われた。姉の女友達が3人でコーラスを唄い、新郎の友達がフルートを吹いて、音楽的に賑やかな式だった。披露宴は2時間で終わった。
二人の新婚さんは式の後、賑々しく飾り立てた自動車に乗って千歳空港まで行き、東京で1泊した後、成田空港からアメリカ西海岸2週間の団体に参加することになっている。和男の一家と材木商の一家は、札幌の会場のラウンジで、暫く談笑して別れた。空路釧路に戻り、そこから阿寒へと、バスで帰った。
和男は生まれて初めて着た濃紺のスーツが似合っていた。それで気分が良く、その服を着て尚美に会いたいと思い、電話した。去年の秋の不運の別れ以来の、再会の喜びを味わいたくなったのだ。期待通り、尚美も再会を喜んだ。昨日の結婚式は知っていたので、和男から電話がかかって来るのを待っていたのだ。二人は十字街をぶらついた。和男は2、3回咳をした。肋膜が痛み、苦笑してごまかした。
「貴方、まだ咳が止まらないの? まだ完治していないのね、可哀想に。そんな状態で不摂生を続けたら、重傷の結核に発展しちゃうんじゃないかしら、心配だわ。この調子じゃあ、東京で療養した方が良さそうね、すぐに戻った方がいいと思うわ。あたしが着いて行ってあげましょうか? 阿寒で療養するなんて、昔の高原療法と同じで、結核には凄く悪い条件ばかしだわ。」
「東京に行く相談をしようよ、そこの喫茶店でさ。」
尚美は和男の腕に掴まって嬉しそうに店に入って席を取った。
「ところで和男さん、あたしが送った白いスリップ、着てみた?」
 「ああ、あれね、僕に丁度よさそうだったんだけど、躰の前にあてがってみたら、その頃姉が来ていてね、取り上げられてしまったんだ、運悪く。あの時は全く残念だった。そういうわけで、東京では着れなかったんだ。」
 「そうなの、それはとても残念だわ。貴方のお姉さん、頭が固いのね。
 フロイドが言うにはね、よく神経症の女性によくある行動だそうだけど、女物の衣服を着て、スカートの前を捲くって、一人で女と男の役を演じるんですって。貴方もそれに近いわね。でも貴方にはその上自虐的傾向と倒錯性がミックスされていて、フロイドの言う症例よりかずっと重傷だって気がするわ。[症例:カズゴン]ってところね。」
 和男は思わず笑ってしまった。尚美は、再び精神分析学を披露して楽しそうだった。
 和男は、トレンチコートを脱いで、濃紺のスーツスタイルを彼女に披露した。
 「昨日初めて着たんだ、スーツというのをね。これ一着しか持っていないんだ。姉の結婚式用に吊しを買ったんだ、僕は平均的寸法らしく、裾上げしなくてもぴったりだったよ。でも、フォーマルっていうのは、正に規格品だね。」
 と、少し自分では満足していないような口振りで話した。
 「もう少し芸術家だってことをアピールする服装が良かったかもね。でも、そのスーツ、貴方にとっても似合っていてよ、貴公子って風に見えるもの、素敵よ。若きスターってところね、阿寒では。[マイ スター]をフランス語にすると何ていうのかしら、和男さん知ってる?」
「そうだねえ、[モンスター(怪獣)]かな!」
二人は笑い転げてしまった。
「僕が結婚式を挙げる時は、もっとラフな格好で、いかにも芸術家らしい垢抜けた服装で、しかも立食スタイルの宴会にしようと思っているんだ。」
「それはいいアイデアだわ、でもできるかしら、親も親類も反対しそうな気がするわ。立ったままの披露宴じゃ長くはやってられないわ、年寄りには堪えるし、それこそ疲労宴になってしまうわ。」
和男は声をあげて笑った。
「尚美、今日の君の顔、随分艶めかしく蒼いけど、病気したのかい? 躰の具合が悪いんじゃないかい、心配だな。そう見えるのは一種貴族的情緒って域に達しているよ。そういう雰囲気がとても似合っているよ。」
「何言ってるのよ、貴方、あたしが貴族ですって、前にも言ったけど、あたしの父は芋男爵よ。病気なんて似合わないわよ、とても。お化粧のせいに決まってるじゃん。」
「僕の顔色はどうだい、尚美、いつもより蒼いかい?」
「蒼白なのがまだ病み上がりだって感じがするわ、まるで蒼白色にお化粧しているみたいだわ。まさか本当にお化粧してるんじゃないんでしょうね?」
尚美は右手の指で和男の頬を撫でて、その指にかすかな青味を認め、
「いっひっひ、これは病気だわ、本当の。老婆には良く解りパフー、こういうことは。
一緒にお化粧ごっこしましょう、東京で。楽しみが増えたなあ。」
  「何、結核患者らしさを演出してみたまでよ、大した病ではあるまいよ。それにしても、なんだい、その婆さん言葉は、止せやい。」
 二人は笑った。
「お姉さんのパンケーキをギッタンでしょう。」
「それに近いけどさあ、姉が持って行かなかったいろいろな物を、捨てるようにと言って箱詰めになっていたのを開けてね、ガメッタのさ。君が送ってくれた白いスリップも封筒ごとあったので、それも一緒に抜き取っといたよ。使った形跡も無かったし。東京にもって行くよ。今も持ってるんだ、姉のパンケーキ。これだよ。」
和男は背広のポケットから長方形のケースを取り出した。尚美がそれを開けて、まだほとんど使われていないことを確かめた。
「貴方のお姉さんは青白色の顔色は似合わないものね、一度塗って見て、似合わないと思って捨てることにしたんでしょう。これ、一流メーカーのじゃん、お金持ちは違うのね、驚いたわ。」


そこに漸くウェイトレスがホットミルクを2つ運んできた。尚美が和男の健康を配慮して、勝手に頼んでしまったのだ。
「ところで和男さん、近頃どんな日記を付けてるの、断片でいいから教えてよ。」
和男は、ウーンと暫く考えてから、
「翳り深い知性の岸辺に舟を泊め、聞き入るのです、夢幻達の微睡みの中にまで。とか、僕の知性の遙かに遠い秘密の部屋の中で思い澱むのです、どんな面貌が自分に似合っているか、なんて調子だね。」
尚美は神妙な目つきで聞いていた。
「何ていうか、詩人の言いそうな言葉ね、それも欧米風の。
貴方のその秘密な部屋の孤独な連鎖をあたしも呼吸してみたいわ、これから暫く。そうすれば、貴方の分裂質に苛まれる精神に瑞々しい息吹を吹き込んであげられるかも知れないものね。新しい刺激を与えることだって可能かも知れないもの、あたしそういう風に頑張ってみたいの、いかしら?」
「いいともさ、そうすれば、僕も今以上に頑張れるに違いないさ。」




N E X T
・ナルシスのカノン・  ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴10 ∴11 ∴12 ∴13 ∴14 ∴15
 ∴16 ∴17





井野博美『短編小説集』TOP
∴SiteTop∴

produced by yuniyuni