ナルシスのカノン 5
しかしまだ大学生だということを呪った。この先まだ1年半も尚美と半分しか恋人でないことを呪った。早く卒業して一人前の男になって、芸術家として尚美と一緒に暮らしたい思った。それも東京のような大都会に住みたいと。阿寒湖畔の街は若い二人にはあまりに狭く窮屈だった。真夏の間はバスの到着の度に人の波でごった返す混雑振りだが、それ以外の季節は全く寂しい街なのだ。
孤独裡に養われる個性を掴む以外に能の無い所なのだ。孤独が与えてくれる内面描写に目覚める以外に取り柄の無い所なのだ。春から秋にかけて以外の季節は、文明の廃墟に沈み込む心の不安に襲われ、人の住まない荒れ地から人の世界を望む物侘びしさといった、人間が生きるには冷たすぎる環境に苛まれるのだ。
しかし、それらの孤独な季節に閉じ籠もっていると、自然と芸術的想念が凝集して開花するエネルギーに転化するというのも事実だった。刺激と孤独が相連れ添うことにより、芸術的生活が送れるのだ。しかし若い和男には、この街は極端に刺激が少ないように感じられ始めていた。
それは、東京での、芸術的質量の大きな生活を垣間見てしまったことによるのだ。多くの立派な美術館や、数え切れないほどの画廊が、そしてたくさんのデパートが催す国際的展覧会が、一年中賑やかにいい作品を見せてくれるという様を知ってしまったことによるのだ。そのようにたくさんの芸術的刺激のある中で、自身が修行し鍛錬することが、有効にして必要なものであるように思われた。
「ねえ、尚美、東京で暮らしてみないか、大学でなくても絵の教室はたくさんあってね、試験も無しで誰でも受けられるんだよ、手ほどきを。君でも立派にアーティストの気分を味わえると思うよ。1年中絵を描く刺激が欲しいだろう、その方が早く一人前になれるって気がするな。」
「なるほどね、でもあたしには兄弟がいて、そっちに教育費を取られたもので、親があたしには出してくれないのよ。それで、あたしは、この阿寒の、氷の世界に閉じ籠もって描く感性を磨くことに熱をあげているのよ。
貴方も、このタブレットを見ればはっきりするけど、氷の世界の幻想的なお城や家々や森林や湖が多く描かれているわ、なかなかいじゃない。これらは、孤独な人間のみが描き得る養われた幻想性が秘められているんだと思うわ。貴方にはこの街の孤独さが必要不可欠なんだと思うわ。既にしてこの街のイメージが貴方の絵の土壌になっているのよ。」
尚美はそう批評しながら、和男のタブレットをめくった。
「でも、これから一人前の芸術家になるには、新しい刺激が必要なんだ。この街はいわゆる冬のイメージしかもたらさないように感じるんだ。その点、東京には1年中刺激がうようよしているんだ、偉大な画家や彫刻家やその卵が屯しているんだ。お互いに大きな感性を受感することができるんだ。いかに生の偉大な作品を目の当たりにすることが、素晴らしい示唆に富んでいることかを、君は知らないんだ。僕は東京に住みたい。」
「それはそうかも知れないけど、この街は幻想を逞しく育むことができるじゃないの、養われた幻想性というものは、芸術家にとって大きな隠し財産だと思うわ。貴方は充分にそんな幻想を表出しているわ。そういう才能を磨いてくれる希有なところよ、ここは。貴方の芸術の泉と鏡よ。
それに東京でなければ成功できないという決まりはないんだし。東京には画家や彫刻家として名をあげられず、塵芥のように人生から落伍している人が大勢いるって聞いているわ。貴方はそうなったら、ここに帰ってくれば芸術活動を続けられるけど、放蕩息子の帰還だって、みんなに笑われるわよ。そんなの格好悪いわよ、純真な芸術家志望者としてはね。その惨めな可能性を打ち破れるかしら、貴方に。
ここを本拠地にして、いろいろな都会に出かけて行くという生活の方がいいんじゃないかしら。我慢する価値のある孤独さだと思うわ、この地での生活は。」
「君は立派な理屈やさんになったようだね、主婦のリアリズムかい、もう奥さんになったのかい、返す言葉もないよ、参ったな。でも、君もせめて1年ぐらい東京で生活してみるといいと思うよ、是非そうすべきだと思うよ。」
和男がそこまで喋った時、彼の父親がギャラリーに入ってきた。今日は気を利かして、いつもより1時間半も遅く散歩から帰ってきたのだ。
和男は慌てて、尚美が再び広げていた、ヘルマフロディトスが磔にされているデッサンを隠すようにタブレットを閉じた。父と尚美は軽く挨拶し合った。それから和男は2冊のタブレットを小脇に抱え、尚美の手を引いて外に出た。小雪は止んでいた。
バスの停留所に着くと、尚美はちょっと身を屈め、捩れて絡み合っていたパンタロンの裾の、紐状の房を真っ直ぐにしようと、裾をたくし上げた。するとその下に、スキーのアフターブーツのような、長い毛がふさふさと生えている犬の足を連想させる、丈の高い白いブーツが見えた。和男には、その白い犬の足がとてもセクシーに見えた。
和男はそこで、今日彼女を待っている間に仕上げた、アイヌ人の顔が彫られているペンダントを一つ、ポケットから引っぱり出し、彼女の胸に吊してプレゼントした。
「君もこれでマルチ国際人だね。」
尚美は少し照れて笑った。二人は、停車している釧路行きのバスのドアーが開くまでお喋りしていた。そして、乗車を促すアナウンスがあると別れた。和男は寒い中を急いで帰ると、再びベッドに滑り込んだ。
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