両性具有文学
.井野博美.

    ナルシスのカノン  6


 尚美の目には、和男はいい結婚相手だった。まず第一に、彼は良く売れる民芸品店の長男であること。他に姉が一人いるが、もう嫁入りが決まっていて、店を継ぐのは彼に決まっているも同然だということ。
春や秋口には年配の夫婦連れや客が訪れ、高価な、アイヌ人のマスクとか、胡桃の板で作られた小箱とか、柳彫りの熊、或いは父の彫ったレリーフなどを買い求めて行く。これらの客は目が肥えている。そしておんこの木を彫った人形なども売れる。おんこの木は、飴色からチョコレート色へと、歳と共に色合いを深めてゆく。
夏の間は、若い学生達でごった返す。彼らは身分相応な品を買うのだが、たくさん売れる物を用意している。機械で作る、スキーを履いたコロポックル人形がバカスカ売れる。アルバイトを雇って大量生産するのだ。夏場の客の多い日の1日の売上高は、100万円に達する。店の場所が売店として一等地であるためだ。そんな家計状態まで尚美は嗅ぎつけていた。
春から秋までの半年間で十二分に稼ぎがあるので、和男は出稼ぎに行く必要もなく、創作に専念できる。阿寒湖畔から東京の美大に進学したのは彼だけで、友人達から羨ましがられている。
それに自分と趣味が合っている。つまり絵を描くという。和男にとっては大事な仕事だが、尚美にとってはまだ趣味のうちだ。彼の父のギャラリーに、もしかしたら自分の絵も置いて貰えるかも知れない。更にもしかして、その絵が売れでもしたら、親類中に自慢できる。それは非芸術家家族育ちの自身にとって奇跡的なことだ。
以上の事柄にもまして、彼は自分の趣味に合う。彼は完全な神経症に罹っている。東京という世界有数の大都会の大学に通っているにもかかわらず、たった一人の友人すらいないという、孤独感と自閉症からくる疎外感と自虐的ナルシシズムに陥っている。
そこには、自身の探求欲を刺激する精神分析学上の宝の山が口を開けている。いつでも自分の楽しみが、つまり恋人の精神状態を分析し、自身に追随させることができる、覚え立てのお披露目したい論理の群が出番を待っている。その切れ味を試すのは快感だ。そんな彼と一緒にいれば、退屈することもない。適当に彼の傷ついた心身を労ってやれるという、女性的本性を発揮することもできる。どう見てもお似合いのカップルだ。
是非とも彼の妻になりたい。その自分の想いを告げるチャンスに恵まれていなかっただけだ。それと、まだ結婚するには少々若過ぎるとも思えたためだ。しかし外見的にも好男子である和男に、いつ別の女が食いつくか心配になってきた。恋心を披露しようと思ったら、心配が早鐘を打つ。彼のズボンを巡る争いが、いつひょんなところで熾烈になるかもと。
自分の胸に帰依させるよう、精神分析の知識を活用しなければならない。彼に他の女ができないように、それを成し遂げなければならない。それは難問かも知れない。自分の才覚でできるかどうか、思案に暮れる想いもある。
そして彼の母親、尚美がお母様と呼びたいその人は、人触りの柔らかい、対しやすい女性なのも彼女の気に入っている要素だ。
実家にも近い。買い物などで釧路に来た時、ちょくちょく戻れる。和男と喧嘩などした時もすぐに帰れる。お産をする時にも釧路なら大きな産院もあるので安心だ。何かにつけて便利な場所だ。
それでいて郵便物は、阿寒湖畔誰々様で届くという、番外地だ。何となくエキゾチックな感があって、それも魅力的だ。にもかかわらず、電気は通じていて電話もある。都市ガスは来ないがプロパンで間に合う。水は井戸水をモーターで汲み上げて賄う。郵便局もある。僻地にしては意外と住み易い所だ。
そして、屈斜路湖、摩周湖といった湖にも近い。季節外れにその辺をドライヴするのは壮観だ。阿寒国立公園という一大観光地が自分の内の庭みたいな気がする。彼女の夢は益々膨らむ。


一方、自身を売り込む身の代はというと、あまり自信が無い。高校の時の成績も芳しくない。一学年に3百人もいる学校で、統一試験をすると、いつもビリから30番以内だ。とても才媛とは言えない。
殊に国語に弱かった。漢文は正に珍分漢文(ちんぷんかんぷん)だった。もっとも、試験勉強などしたことは一度も無かった。それで、先生達が彼女を見やる時に、無知との遭遇といった顔をするのだが、尚美の方は、自分は好きな時に好きなことをやっているのだと、胸を張っていた。
それでも大学は一応受験してみた。和男の通っている美大にも、彼には内緒で受けてみたが駄目だった。その他、3つ東京の大学を狙ってみたが、どこも駄目だった。地元の短大も受けてみたが、そこすら入れなかった。1年浪人してみようかと、高校の先生に相談したが、来年も絶望的だと言い渡された。学問には縁遠いのだと諦めることにした。
それがひょんなことから、ある科学が好きになった。それは高校を卒業したある日、札幌の大学に進学した友人に葉書を出したのだが、宛先の住所が間違っていたので返送されてきたのだ。その葉書を上の兄に読まれてしまった。内容はどうでもいいのだが、漢字が間違いだらけだった。例えば、「駅弁」が「駅便」、「非凡」が「悲凡」、「思春期」が「始春気」、「鎮痛剤」が「陣痛済」という具合だった。それを見た兄にどやされたのだ。
「こんなに間違いだらけの漢字の文は初めて見たぞ、辞書を引いて正せ! もっと頭を熱くして、漢字ぐらい覚えろ!」
尚美は「あらまあ」としか言い様がなかった。すると、兄は更にどやしつけたのだ。
「何だと、お前、いつから[あらまあ族の姉妹]になったんだ、[馬鹿(バッカ)デミア]の会員にされちまうぞ! ヴァージンなのは大いに結構、しかしパージンでは困るんだ。 高校をビリで卒業したまではまだ良かったが、その後、[毎日が馬鹿ンス]じゃないか、どういうつもりだ? これじゃあ、[乙姫様]どころか[Z婆]じゃあないか。[ミス・ショッキング]のコンテストに出るつもりか!?」
尚美は、いつかこの兄にZ旗をあげてやると決意し、以来、何くそと思い、その兄が次から次へと買ってくる精神分析学の本を、兄が出勤中に読むようになったのだ。
初めは取っつきにくい学問だったが、読み進めると大変面白い。自身の発達過程を、精神的にも肉体的にも追認識させられる。以来夢中でバリエーションを広げ、それらの論理構造を覚えるに到った。
最近ではしばしば、友達の言葉尻を掴まえて、何々シンドローム(症候群)というレッテルを貼り付けて楽しんでいる。急にサイエンティフィックになったと評判になっているほどだ。
それは彼女の公然たる楽しみにさへなった。他人の精神状態を抉る快感、そのナイフを研ぎ澄ます、目の醒めるような喜び、それらが益々、精神分析学の研究へと尚美を駆り立てる。
1年間の若いうちの研鑽は、目覚ましい程の進歩振りで、さして言葉にうるさくない美術大学に通っている、和男の語彙と対々になれたろうぐらいに思った。しかし独学だし、大学に行って本格的に学んだわけではない彼女には、決定的な自信は無い。
学者になれよう筈もない、このままでは。今のままでは、何か特別な職業にもありつけそうにない。おさんどんに向いているように思われる。それで尚一層、自分の母性本能で、和男の重度の自閉症が表出する言説をいたわりながら治癒する方向に彼を導かねばならない。それは至難の業だが、是非ともやり遂げなければならない。最近覚え立ての精神分析的論理の群を、そうと気付かれずに前面に押し出さなければならない。基本的に優しくしなければいけない。
しかし、自身をそう簡単に安売りする振りを彼に見せてはまずい、なるたけ高く売らなければという、丈高い打算を胸に秘めていた。それは自分の背よりも高いのではないかと思われた。望みは高い程良いと巷では言うではないかと、彼女は考えた。
その他、和男の家のいい面は、秋から春までの半年間、客も無く、ひっそりと愛の生活を営めることだ。邪魔物は一切いない。和男の芸術家としての修練と、二人の愛の昂揚が待っている。そして春から秋までの半年間、商売に忙しい日々が続く。それで数年分の充分な収入が得られるので、貯金もたくさんできる。忙しい日々があるのもいいものだ、生活のアクセントになる。


一方、レリーフとデッサンは大分似ている。デッサンの達者な和男なら、後はノミの使い方に注意すれば、油絵科卒でも何とか彫刻家としてやって行けるだろうと尚美は思う。細かい技術的な面は父に習えばよい。彼の父も、この街で名の通った彫物師であり、熊彫りの名人と呼ばれる人に次いで、中央でも名の通った人である。
和男は油絵を続行しつつ、彫刻の修行をすればいい。尚美は絵やレリーフのためのデッサンをして、自分でも彫り物を創れるかも知れない。そんな優雅な幻想を思う存分抱くのも悪くない。自分の実家にない芸術的雰囲気に溶け込めそうな気がする。是非それを味わいたい。近頃流行りの、翔んでる女になれるかも知れない。
他方、それは夢のまた夢だという考えが脳裏を掠めた。自分の芸術的感性は、どう見ても深くない。自分にはやはり平凡なおさんどんが適している。
それよりか、精神分析の楽しみを探る方がいい、自分に合っている。それを頼りに、円満な家庭を築くのが望ましい。そうだ、円満な家庭だ、自分が望み得る最大の喜びは。
 その上で、精神分析の視霊を、芸術に向けることだって可能だろう。そこに新しい家族の会話の種を播くこともできるだろう。新しい芸術のモチーフの開発にも役立つだろう。家族にそういう人物がいることは、とてもいいことだと思える。
それにお医者さんごっこもできる。洞察力も着くだろう。あらまー族コンプレックスを忘れられそうだ。その教養を、女性的滋味深さに変容し、和男より精神的優位に立ってることを知られずに、彼の神経症を癒してあげることもできるだろう。和男にとって、最良の友でいられるかも知れない。孤独に蝕まれ、更に結核にかかった和男の不健康な心身を労ることができるのは、自分だけだと思った。
和男は完全に神経症に罹っている。その上、自閉症の様相を提示しつつある。これは容易ならぬ病のように思われる。優しくしてあげられる女の子が彼には必要だ。それは自分をおいて他にいないと確信したかった。何しろ和男は、精神的に度外れの晩稲のように思われる。
ナルシス症候群の和男を自己愛から引きずり出すには、異性である自分を愛させることだ、そう彼女は思った。それが一番効果的だと思われた。それに、女である自身が、和男という男と付き合っているというのに、自分に性的欲望を示さないというのは、自身にとっても不名誉な、情けない話ではないかとも思われた。
しかし、大丈夫、和男はあたしを愛している。あたしと話す時のあの会話の弾みよう、自閉症を感じさせる目つきも付き纏っているものの、あの失神の振りをした時の、わざとらしくない感覚の踊りの華やかさ、それらは昔馴染みで気安いためばかりではなく、あたしを愛しているからこそに違いない。そう確信できる。
今度会ったら、キスくらい宥そう。それは早いほどよい。しかし待てよ、和男もあたしに早く愛の告白をしたがっているかも知れない。その思いを何層倍にも増幅した方がいい。あたしを恋焦がらせることだ。それでこそ値打ち物の恋愛だ。そうだ、ここで一息入れよう、3、4日行くのを延ばそう。今がその絶好のチャンスだ。そう尚美は考えた。乙女心の奥ゆかしさに思い至り、尚美は一人秘かに愉しんだ。
乙女心の修練、それに彼女は今しがた気付いたばかしだ。今までは唯夢中で友人達に何々シンドロームというレッテルを貼り付けて傷つけてきたが、和男にはそうしてはいけないのではないかという気がしてきた。
そうだ、和男に本当に愛されるためには、彼の神経症を鋭い刃で抉ってはいけないのだ。昨日は少しやり過ぎた。一昨日のように、優しく接していかなければいけないのだ、特に今の和男には。やっと尚美は、愛されるこつのようなものに想いを傾けた。
それから、一般的に男というものは、自分の影響の下に女を育てたがるものだ。そうだ、今度会ったら、和男の好きな詩人達の本を読ませて欲しいと申し込んでみよう。彼が好きなのは、ポーとリルケとイーリアッドだ。それらを借りて読んで、思い切り幼稚な感想を述べて、彼に文学的優越感を持たせてあげよう、そう尚美は思いついた。
恋をして、考えてみると、いろいろと手だてがあるものだなと思われた。適齢期だというのに、そういうことに今まで気が付かなかったのは、やはり、あらまー族の姉妹だったからかななどと思われた。
これから自分は、女らしい乙女に変身するのだと決心した。というのも、今の和男が、自身を売り込むのに絶好のチャンスのように思えるからだ。そうだ、青白いパンケーキの似合うあたしには、病的なまでの女らしさが相応しい。それにそうなれば、かなり性倒錯(パラフィリア)気味の彼も、本物の女とはこういうものかと思い、自身の表出する物腰も男らしくなるだろうと思われた。
彼をおかまなどにしてはいけない。美男子でも男っぽくなって貰わなければ困る。何が何でもナルシシズムから引き上げてあげなくてはと、尚美は思いを巡らせる。和男が基本的に美男子であるということ、これが心配の種だ。いつ別口の女が飛びつくか知れない。あたしよりも利口で可愛い女はたくさんいそうだから。
それを防ぐには、彼の精神に深い好感を植え付けることだ。暴虐に彼のエスプリを抉ってはいけない。そんなことをしたらおしまいだ、気狂いに刃物だなどと思われてはいけない、注意深く彼の心の奥底に手探りを入れなくてはいけない。それはできることか、自身は相手の心を引き付けるような器用な女ではない。彼の気に入るよう、可愛い女に変身しなくてはと、心は逸る。


彼女の兄達は、妹を早いとこ嫁に出して、自分達も30前に結婚したいと常々言っているので、彼女は毎日窮屈な思いで暮らしていて、何とか結婚を早めにしなければと内心焦ってもいる。上の兄とは9歳、下の兄とは6歳も歳が離れている。それでも妹を先に結婚させたいと家の者は考えている。この家で生活したいからだ、長男は。
既に2回もお見合いしたが、1度目は先方から断られ、2度目は、相手は乗り気だったが、自分の方から断った。話が破談になる度に、尚美は尚一層窮屈な思いをさせられる。そして孤独になる。家に居ずらいという感覚は、刻一刻と身に染みる。家族はあたしにどこかに行ってしまえと言っているみたいだ。女とは何と哀れな存在なのだろうと考えさせられる。そんなわけで、好いている和男に熱い期待が傾く。




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