ナルシスのカノン 8
そんな二人の別れを、建物の陰から尚美が見つめていた。
和男がギャラリーに戻るやいなや、尚美がガラス戸に現れ、膨れっ面で大きく腕を回して外に誘った。[さあ、出てらっしゃい]と言わんばかりの厳しい顔付きで合図した。彼は尚美の見幕に気圧されてすごすごと外に出た。尚美はそんな和男の頬にいきなり平手打ちを喰らわせた。
「貴方、あの東京の女の人とどういう関係なの、キッスなんかしちゃって、お馬鹿さん、あの人は貴方よりずっと年上じゃないの、それとも貴方はマザコンなの、年上の人が性に合うの、あたしよりも、、、」
そこまで一気に言うと、尚美はワッと泣きだして和男の胸に抱きついた。和男は呆然として彼女の背を抱きしめ、暫くしてから、やっと口を開いた。
「解っているだろう、僕は君だけを愛してるってことぐらい。あの女はウムを言わせずキッスしてきたんだよ、でも、僕のパトロンになってくれるっていうものだから、無下に拒否できなかったんだ、、、」
和男はていの悪い言い訳をした。
「パトロンですって、この浮気者め、あたしとどっちが大事なのか、はっきり言って頂戴。」
「それは君に決まっている。」
尚美は和男の頬をいやというほど強く抓った。
そんな二人をウィンドーの中からにやにやしながら見ていた父が、和男と目が合った時に腕を大きく回して、[どこかへ行ってしまえ]と合図した。
ばつが悪い思いでいっぱいの和男は、尚美の腕を掴んで引っ張るようにしてそこを離れた。彼女は掴まれた腕を振り払って和男から離れ、ぷいとそっぽを向いて阿寒川の出発点の方へ歩き始めた。それで、和男は彼女に着いて行った。
いつしか二人は川の土手を歩いていた。辺りには、枝が下に向くエゾマツと、枝が上を向くトドマツの混淆林が続いていた。和男は流れに映る自分の影を見つつ思った。
[川の水面を浮き沈みしながら浮き草が揺れている。水面を覗き込むと、浮き草が浮き沈みしながら作る波に僕の想いが揺らめく。そして僕の影は、僕と同じ速さで浮き草の上を歩んでいる。一瞬一瞬の揺らめく姿に、僕の想いは集中する。僕の影は、水面に捕らえられることなく消えることなく、永遠に波間に自己の存在を浮かべている。そして僕の影は尚美を全面的に所有している。
波によって光によって、自己の現身を変幻させられつつも、自分が自分で無いということはない。自身の影は光にもなり波にもなる。尚美を輝かせたり曇らせたりする。だのに土手にいる僕は、羨むべき影を見つつ、その影を掴まえ得る所に在りながら、今一歩手が届かず紛失してしまう。影は僕と同化する存在を連想させつつ、僕と一致することはない。僕は想いの影程に全的ではない。そんな全的な影を揺らめかす、浮き草の浮き沈みする流れに僕は身を投じたい。それが僕の想いだ。]
「そうだ、[影を汲むこそ心あれ]だ。」
和男は突然そう口に出して言った。しかし、尚美は黙ったままだった。
二人の昂ぶっていた躰は暫くの間、熱い血を全身に滾らせていた。和男はジーンズのポケットからハンカチを取りだし、唇に付着していた東京の女の痕跡を拭い去った。そのハンカチを尚美がサッと引ったくって川に投げ捨てた。すると、和男は何となく、落ち着いた気分になった。
いつしか道は川の土手から離れて行った。
二人は延々と歩き続け、遂に丹頂の里まで到着した。近くに丹頂鶴の公園があり、頭部の赤い地肌が見えるのが3羽目撃された。
折良く、釧路行きのバスが通りがかり、尚美はそのバスに乗り込んだ。尚美が車内から和男を見やったので、彼は手を振り、「さようなら」と大きな声を出した。すると彼女は、「さようなら」と、エコーのように返辞したが、手は振らず、傲然と座席に腰を下ろした。 その頃には和男の躰はすっかり冷え込んでしまった。そして一つ咳をした。彼はナルシスの神話を想い出した。ナルシスが「さようなら」と言うと、彼を愛するエコーが「さようなら」と、同じ言葉を繰り返すことしかできなかったという件(くだり)を頭に浮かべ、本当に自分達もそうなって、泉の畔で死んでしまうのではないかと思った。
そこに、和男を心配した父がバンを運転してやってきて、和男はやっと暖かい空気にありつけ、冷え切った躰を温めた。
その頃尚美はバスの中で、複雑な気分で座っていた。今日こそは心の裡を告白し、和男の口から直に婚約の約束を引きずり出そうと、より女っぽくワンピース姿で来たというのに、彼の病み上がりの躰に優しい労りの言葉をかけてあげようと思ってきたのに、ちょっと遅かった。
あの女が憎い、自分より先に和男とキッスを交わしたあの女が憎い。いくら和男のパトロンになってくれるといっても許せない。あんな女とキッスをした和男も憎い。自分の女心を裏切った和男が憎い。しかし、彼の胸の中に飛び込んで泣いたのだから、熱く滾る感動を彼の胸に深く植え込んだに違いない。
和男にとって、あの女は危険なアニマだ、アニマルのアニマだ、終止形の[る]が抜けているだけよ。そうよ、狼のアニマよ、アニマリスムよ。そう尚美は思った。
そうだ、彼にペナルティーを課そう。孤独の内に放っておこう、あたしの優しさに深く気付くまでは。彼女はそう決めた。
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