末日性徒ベルボー 第二章 自己と性世界の関係 -4- 仙人的自己の世界
春休みにミズルは、暫く前から感じていた下腹部の異常を産婦人科で調べて貰った結果、腹腔内にある睾丸が癌に罹っていると診断され、摘出する手術を受けた。前立腺は初めから無かったので、手術は早く済んだ。睾丸は一つしかなく、もう一つは卵巣睾丸で、それも除去された。そして、クリペニスはクリトリスに形成された。
両性具有のうちの男性機能が失われたわけだが、完全な女になったという気はしなかった。自分らしさも以前と変わらないようだった。それがカノジョに慰めの気持ちを大きくもたらした。
産婦人科に入院していた十日間、男でも女でもあるミズルは、病棟の一番端にある一人部屋に入れられていた。他の女性患者とおかしな関係にならないように配慮された結果だが、それがカノジョには、殊の外嬉しいことだった。自分は今も両性具有なんだと自覚することが出来て。純女と同一に扱われないということが、今のカノジョの唯一の逸楽だった。
それにしても気になるのは、スカート穿爵やナルシッサや霊界人が見舞いに来てくれるのは嬉しいのだが、その言葉がどうにも、自分の意識に合わないことだ。
「手術が無事に済んで良かったわね、快気祝いをしましょうね、退院したら早速。」
と、まるでおめでたいことのように考えているらしいことだ。ミズルの両性具有という勲章が奪われたことのショックを、何ら気付いてくれないことだ。ミズルの苦悩の扉を開くことに無頓着なことだ。花束など持ってきて、「これからは完全な女だね」などと戯言を抜かすことだ。彼らが帰ると、カノジョはその花束を踏みしだいて、滅茶苦茶にして、当てつけのために花瓶に入れておいた。「この俺に花束が似合うとでも思っているのか、戯けめが!」と、一人、失われた男の肉体に成り代わって憤慨した。
次の日も彼らはやって来たが、その花束を見て、唖然としていたが、スカート穿爵は、「ベルボーは花より団子なんでしょう」と言ったが、ミズルは黙って皆に背を向けてしまった。そして呟くように言った。
「どうせ花を持ってきてくれるなら、ローズマリーか彼岸花にしてくれない。」と、ぶっきらぼうに言った。
「どうしたのよ、ベルボー、そんな花、お墓に生えているもんじゃないの、縁起が悪いわよ。」と、ナルシッサが応じた。
「アタシの最愛の男が滅んだのよ、そのお葬式とお墓参りをしているんだから、今は喪中なのよ、だから快気祝いって気にはなれないの、申し訳ないんだけど。」
そう言うとミズルは皆の方に向き直った。その眼から大粒の涙が滴っていたので、皆、これは自分達には到底気付かない心理だったなと思った。それで、唯頷くしかなかった。両性具有者の心魂は複雑だなと思い知らされて、皆引き上げて行った。
ミズルの心には、現実の男女が暮らしていたのだ。そのうちのオトコが癌で死に絶え、摘出され、肉体的にはオンナでしかなくなってしまった。オトコの性的反応は、脳髄以外感じられなくなってしまった。高校の終わり頃感じていた、オトコとオンナの骸を抱いているという想いが思い出されてきた。そのため、現実にオトコの性機能が失われてみると、本当のオトコの骸を抱え込んでしまったと実感され、両性具有という故郷から、オトコの骸を抱えて流浪の旅に出たような気になってきた。
果たして供養すべきなのか、それとも追憶の性として保存されるべきなのかと、思いあぐねていた。しかし、それは単に考えただけのことだった。実際の肉体の、男の感覚は滅んでしまったのだ。その賦活が起こることを期待するしかない。時々脳裏に現れては波のように退いて行く妖精のような存在として、ミズルに遺された男の脳に羽ばたくものになったのだ。
セ テュンヌ ロジック フェーリック. (それは妖精の論理。)
セ テュンヌ シメリック レーリック. (それは空想の残骸。)
カノジョの両性のそれぞれの脳に、失われたオトコの性機能の、淡い面影が妖精のように舞って訪れる意外に、男の肉の感覚は実感出来ないものになったのだ。それは空想でもあり、現実でもある。それらを統括しているのが、滅んだという事実故、残骸でもあるが、その残骸こそが、優雅でダンディーなオーラを放つ基になったのだ。いつかそれら男のものを感得出来る時がきますようにと祈る、空想の源ともなったのだ。
いわば、自己恋慕とでも形容すべき関係になったのだ。唯、いつも失恋に終わるのが虚しさなのだが。性が虚しいものという意識に染まって行くのを、カノジョは体感した。性というものが、自分の躰から乖離して行くという現象を再確認させられた。自分の躰にありながらも、自分に顕れないものになってゆくという予感を覚えた。これは、肉体の現実を、心の側が見離してしまうということなのだろうかと、カノジョは考えた。そういう存在も、自己により認知されるもののように思われた。
そういう意識を持ってみると、自分の中の性というものが、裡なる他者なのだということが、明瞭に浮かび上がってくるように思われた。その裡なる他者は自明の人格を備えたものとして、ミズルの躰に根付いている。こういうミズルにはあまりに明瞭な、裡なる他者という存在意識を、一般の性の人達は持っていないのかも知れないと、カノジョは思った。カノジョにとって、今まで持っていたオトコという存在とその感性及び意識は、無くなったのではなく、裡なる他者として自分の永遠の、実在する伴侶になったのだと思われた。
又、男でもあり女でもある存在が、男の機能を失ったことにより、どちらでもなくなってしまうかもと実感する躰になったという意味でも、妖精の世界に踏み込んだのか、或いは仙人の棲む世界に同化したのだろうかと考えさせられた。その感覚からすると、カノジョのオンナという、生きた機能を持っている存在も、裡なる他者のように思われてくる。それは両性具有者にとっては、自己喪失ではなく、自己確証なのだということを、ミズルは強く感じるが、普通の人には解って貰えそうにないなと思われれた。
最早、男として現世に現れることはなくなり、仙人の世界に女体で踏み込んだというわけだが、そこが、ミズルのオトコとオンナを統一する新天地かどうかは、まだ解らない。それでも、そういう世界を夢想する以外に、自己が生きる時空は亡いように思われるのだ。 現実に仙人はいないが、そういう世界は意識の中で時空を得て、開拓することにより、個々の人間がそこから自分を見つめる自己の世界になるということを、ミズルは朧気に悟っていた。その自己が、己を切磋琢磨することにより、その世界が聖なる時空になるのだ。それは勿論、現実にある空間ではなく、自己を個から切り離すことにより構築される、意識の世界である。
そういう世界が、ミズルという両性具有者の眼前に開けているのである。それはミズルには当然のごとく思われる。それは幼少の折りより、男女両方の意識が、ごく自然に自分を悩ますため、その悩みを解決するには、その性を見つめなくてはならなかったということから、段々とその性を見つめるものが、個別肉体から発生する自己というものなのだということに、気付いていたためでもある。
その自己は、個とは違って社会内存在ではない、世界内存在ではあるだろうが、いや、宇宙内存在というべきかも知れないが。社会を、個を媒介にして見つめている存在として、社会の外から社会と個を見ているという、普遍的時空世界に巣くっている、生を見守るものである。その時空世界に身をおくことこそ、人間の本性なのであり、仙人へと個を導き、心の穢れを落とし、人間らしく生まれ変わる、禊ぎの場でもある。そういう意味では、自分を浄化し、自己の世界へと送り込んでくる魂のカタルーシスの世界と呼ぶべきかも知れない。
肉体である個が、自分を見つめる自己を生み出したように、社会的存在である個が、社会から自分をはみ出させ、社会的個を見つめる自己を生み出すのである。そういう両方の意味が重なって、自己は、肉体的にも社会的にも類的存在と認知されるものなのである。 性についても同様に、自分の男や女という肉体が、自らの性を個としてオブジェ化し、それを見つめる性的でない自己を生み出すのである。
それは、個を客観的に見つめる立場に立つと普通言われることと、若干似ているが、その客観的立場というものは、自己とは違うのだと、ミズルには思える。客観性の発生が何を生み出したのかを考えると、客観性というものはあまりにも曖昧であるとミズルは感じる。しかし、客観性を駄目だというつもりはない。ミズルは研究中である。
第三者の立場に立ってなどという言い方に到っては、他人を勝手に自分に引きつけているだけの、ご都合主義の言うもおぞましいインチキ説法である。第三者は皆違うことを言う、十人十色であると、大多数の人は考えると言われたら、少しは痛感するところがあるであろう。第三者の立場に立ってという言い方は、自分を社会の代表にしたいというあさましい欲望の表現であり、その裏には、自分は絶対正しいという傲慢なる信条を抱いていることの証なのであると、ミズルには思える。
ミズルの場合、男女双方の性を持っていたが、その両者を一度に表出出来ないために、現実社会の中に性を、いや性別を押し出せないという状況に直面したが故に、両方の性の肉体とも、生ける骸と感じざるを得ないものだった。そして現実に、男性性器を摘出したために、男存在という肉体は名実共に骸になったのだ。しかし、その骸を体外に捨て去ることは出来ないし、その骸が抱いていた男の感性・理性も、亡くなりはしないのである。 同時に、残された女の肉体が、ミズルの主人公の座に着いたわけでもなかった。その女の肉体にとって、失われた男の肉体は、相棒という存在でもなかった。一つの肉体に生起しつつも、密着していたわけではなかったのだ。相呼び合うものではなかった。つまり、性意識はミズルの場合、自分にとって拠り所でも隠れ家でもない、空虚なものであり、単に肉の律動があるだけのものであると認識していた。性が自分を代表する表面ないしアイデンティティーではないのだ。
ミズルは、若いうちからそういう風に自分の性を突き放して見つめていた。自分の躰に生きているにも拘わらず、性は自分の主人公ではなく、骸であるということは、自分の躰は性の霊柩だということだ。そう捉えるのは、自己の境地に立てばこそ可能なことなのだ。両性具有というと、性で充満しているのではないかと思われるかも知れないが、事実はこのように、両方の性を突き放して見つめる自己を発見するという、通常人がなかなか辿り着かない境地に立つことになるのだ。
それはカノジョの昔からの願望である、仙人的存在になりたいという意識に徐々に近づいて行くように思え、それを磨きたいものだと意志する溶媒としての性でもあった。それ故、ミズルは、他人に対して、女として登場するわけでもなく、男として現れるわけでもなかった。それは、相手がミズルを男として、或いは女として見なすということには関係なく接するということにもなる。それは相手の性意識にはお構いなしということである。 ミズルは、自分は普通の男女のようには振る舞えないということを、幼少の折りより、厭と言うほど味わってきたためもある。自分風に振る舞うと、皆が、あの人おかしな人と思い、付き合ってくれなくなってしまうという苦い経験もある。どちらかの性として振る舞っても、自他共に違和感を覚えるのだ。付き合える人物が高校までいなかったのは、そのせいである。変な人であると自覚し、他人と調子を合わせるのは止そう思い立ってから、ミズルの心はやっと人間的になったように感じていた。
どちらかの性の人として振る舞うのにくたびれるという、普通の人とかなり違う経験を持っているのだ。普通の男女は、その性として振る舞うことに、精神的苦労をあまり覚えず、付き合えたということに満足感を抱くようだが、ミズルには、どちらかの性として振る舞うことに対し、常に自己欺瞞を感じていた。そして自己憐憫の虜にもなるという具合に、他人との交際は、自己を破壊する方向性を持っていた。そういう自分を眼差す自己というものに対し、刃で抉るものだったのだ。危うく自己喪失に陥るところだった。
性的自己同一性[ジェンダー]というものを追いかけることが、自分の性意識を破壊することだったのだ、ミズルにとっては。却ってそれに気付き、性から遠のいたことにより、自己同一性、つまりアイデンティティーを得ることが出来たと言える。
世の中の一般人は、ジェンダーを身に着けることによって、性的に大人になるようだが、ミズルにとっては、そういう指向性が身を滅ぼし、精神病に発展するであろうことなのだ。こういうことに通常人は気が付かず、単に、両性具有者は分裂症に罹るなどと戯言を並べるのだ。
このように、性意識の獲得とは全く異なった、性意識の意識的放棄が両性具有者の意識を安定させるのである。そういう認識に、ミズルという両性具有者の自己は達している。そこまで行くには、通常人の両性の性意識の生成過程を知ってからということも厳存している。
普通の男女の性意識を知っても尚、自分はそのどちらでもないということを悟り、独り別の性世界を形造る必要があるのだ。そこまで到ってようやっと、アイデンティティーを獲得出来るのである。その世界こそ、両性具有者にとっての自己と仙人が闊歩する世界なのである。
入院している間に、ミズルはそういう風に自分の置かれた立場と可能性について瞑想していた。男の性機能を失ったが、それに代わる意識上の男性性が飛躍的に成長したことを実感出来たことは、大いなる、男の部分の肉体が遺した遺産のような気がした。失ったことにより得られたということが、少々感傷的なのだが。
現代の世界の医学では、両性具有という肉体は、どちらかの性に帰属させるべきものとして、治療すべき疾患ないし症状と診断されるのだが、それは大きな間違いであると、ミズルは考えている。どちらに帰属しても満足はいかないし、意識もそれらしくはならないのである。この世の性意識の範疇に収まらないのである。医師は、幼児期の肉体の外形と気質により判断を下し、どちらかの性座に落ち着かせようとするが、性意識というものは、外形と異なることが多い。
そもそも、両性の心身をしているという、真性半陰陽児の数が極めて少ないので、それらの人々の性意識は、医師にも知られていないというのが実状だ。それを、整理整頓するみたいに区分しようというのは、治療どころか、半陰陽者の意識を惑乱ないし混乱させてしまう、暴力と呼ぶべき行為なのだ。優性保護法という、生殖能力を優先させる法律では片づかない問題なのだ。
|
|
|
|
|