末日性徒ベルボー 第三章 両性具有者の意識 -3- 自己による性の創造


 ミズルにとって、性は自己によって捉えられる、裡なる他者としてのものであり、ペルソナ(人格)によって形作られる、男女を問わぬ、仮象としての性の総体だということだった。それにアンガージュ(自己拘束)することによって、男女どちらかの、いやどちらの性にもなるというものだった。しかし、それらの仮象の性には、仮面が被されているのであり、普段、そのマスクを脱ぐことはなく、素顔すら素顔仮面と感じるものだった。
 そのような仮象の性が顕現されることにより、人格に性が一時宿るものだった。それらは、自己により把握されている性的マスクであり、それ故変幻する素顔仮面と考えられているものである。両性具有者の性は男女両方なのだから、マスクも両方なのである。それは生まれついての肉体に依存しているのだが、ペルソナは一つなのだから、ペルソナに於いて発現される内的意識としての性なのである。
 内的意識としての性であるとは、具体性を乗り越え、意識的に性に自己拘束するのであるから、自分がイメージする性を生きてみようというわけである。その意味では、ボーヴォワールの言う、第二の性に自分を賭けるのに似ている。それは純粋に意識的なものであるので、ある意味で幻想と美意識の発露であり、かなり芸術的であるとさえ言える。それはおかまやおなべにも当て嵌まることだが、取り組む角度は正反対である。
 前にも触れたが、おかまやおなべは、振る舞いとは反対の直接的性を持っているのに対し、両性具有者は両方の直接的性を持っていて、そのうちの片方を切り捨てることにより、もう一つの性に取り組むからである。しかし、意識的に取り組むということでは同じなのだ。自分の幻想性と美意識を鍛えるという点で、共通項を持っているのだ。歌舞伎や宝塚の役者は、稽古場や舞台で演技し、仕事として演技するだけだが、両性具有者やゲイは、実生活の場で行うという違いがある。
 それはさておき、両性具有者の場合に戻ると、性は裡なる他者として自己に捉えられているので、自己により考えられた性の人間へと肉体と反応を形成すると言える。つまり、自己による性の創造をなすということだ。それも日夜、創作活動に勤しまなければならない。それに順応出来れば成功と言えるだろう。別に片方の性だけに順応すればいいというわけではなく、両方の性に順応してもおかしくない。
 両方の性とも、両性具有者にとっては、自己によって捉えられる裡なる他者なのだから、どちらになるのも大変な苦労を要するが、両方に順応出来うる可能性を持っているのだ。 ミズルは、その両方の芽を大事に育てたいと思っている。その両方の性を磨くということは、両性具有性のスケールを大きくすることに他ならない。それは必然的に、その両者を統括している自己の個性の、性の幅を広いものにするだろう。男はオトコだけ、女はオンナだけにくくりつけられることを、両性具有のミズルは訝しんでいる。自分には到底耐えられない存在の仕方だと感じている。
 しかるに実を言って、一方では、その感覚には、男役も女役も、あまり面白くないという想いも籠もっている。積極的にどちらかになりたいという気は全然無いと言っても過言ではない。性的に意志的になろうというのは、極めて憂鬱なことに思え、自分を殺すことだと思っている。自分の両性具有性だけを発展させたいと願っている。
 自分に遺されたオンナの性器的性を活用して、女として男と積極的に付き合えば、必ず性行為に落ちるだろうし、それは可能だが、それは自分を自己喪失に追いやるように思えるのだ。というのも、自分の性器的部分が、自分のものでないという気がして仕方ないからだ。性行為だけがあり、自分がそこから離れていってしまうように実感するからだ。いつもミズルは、自分の性器的部分が自分から遊離しているように思えるのだが、性行為をすると、自分の全身の中で、そこが消え失せてしまい、何も感じなくなってしまうのだ。 両性具有者としてのミズルは、どちらの性の性器も、自分を無化するもののように感じていた。その意味では、両方の性の性器を封印したいという欲求を持っているのかも知れない。両方の性器を失ってこそ、十全たる両性具有者として振る舞えると感じているようだった。
 しかしそれは、両性具有という性座に安閑としていられないことからくる、背理としての性意識なのかも知れないと、半分は思い、疑ってもいた。こっちは思考上の判断であり、亡くしてしまいたいというのは、感情的な欲求なのだと思っていた。その二つの意識が、両性具有という身体にまとわりついていた。特に、性行為について考えると、そういう感情と実際の虚無的自己喪失感が、性的事象を亡くしてしまいたいという、封印の欲求を呼び覚ますのが常だった。
 自分の性器が、自分から離れていると感じるというのも、ある種の心因的抑圧に起因する器質的損傷なのかも知れないと、精神分析学の本を読み漁って想像したりした。しかし、精神科医に相談に行く気にはなれなかった。というのも、性的快楽が、モンスターのごとき破壊力をもって、自分から、永久に性的感覚を奪い去ってしまうのではないかと想像してしまうので、それは避けなければという肉体の、本質保持機制とでも呼ぶべき反応を起こすという理由に因り、これ以上複雑に悩みたくないと思うためだった。
 そこまで悩まねばならないというのは、吾ながら哀れだったから。しかし、そのうち、その悩みや哀感も分析しなければならないだろうと思っている。というのも、そういう強い想いや感性というものほど、多くの問題点を抱えているものだということを、ミズルは経験的に知っているからだ。
 以前、初めて霊界人と性体験を交じ合わせた夜が想い出された。あの時自分は終始受動的だった。そして、ワギナの律動とエクスタシーを初めて味わったが、シャワーを浴びたら、激しい嘔吐と共にそれらの感覚が遙かな彼方に消え入ってしまい、以来、そのままだという事実が、自分に怖れと不安を永遠の墓場の遺跡のごとくに、現在に蘇らせるものにしてしまったのだ。そう思うと、もうセックスはしたくない、真っ平よと思える。
 性行為をしなくても、人間は性的に悩むという現実が自分を、ペシミスティックに肉体を自己の元に匿って貰おうとするかのように、自己の対象物としてずっとそっとしておいて欲しいと、自分の受動性共々預けてしまいたかった。自己にとって、裡なる他者として包み込んでおいて欲しいと願うようになった。
 しかし、裡なる他者であるからこそ、自己に対象化されるものの、自分で性的に行動してしまうのだという現実にも気付いていた。つまり他者なのである。その他者である性が、自立出来ずに不安と怖れに戦いているのだ。何故こういうことが起こるのか、ミズル独りの頭では考察しきれないものだったが、性的悩みは、若いうちは打ち明けにくいもののようで、他人の智慧を借りるのは、専ら読書によってだった。
 その読書によって得られる行動の指針は、反省的自己によって示されるもののようだった。その指示に頼るしか、自分の肉体は性的に破綻してしまうように感じられるので、判断は自己に任せようと思った。その上で、自己による自分の性の自画像を確立するのが、妥当な自分の生き方のような気がした。
 ここに、自己による性の創造という考えに落ち着く要因が、ミズルにはあった。それは、肉体的直接性の次元にある性的行動の動機を純理性であるところの自己により処理して貰おうという、受動性への傾倒だった。それは、肉の衝動の放棄を自己によって昇華して欲しいという、理性への身投げでもあった。そういうことが可能かどうか、まだ不確かなのだが。そして、そうすることが、自然なことかどうかも不明だった。
 しかし人間は誰しも、自己によって行動を律することを当たり前のこととしているのだから、性についてもそうすることは不都合ではないだろうと思われた。そうすることによって性も、仙人的自己の世界の住人になれるのだと思った。
 自分の性器的部分、つまりお尻や股間が、自分の心を傷つけ、自分を裏切るために、そんな物は亡い方が心が落ちつく。裡なる他者にとって、自己疎外を起こす源である。それから免れるためには、性器を自分の物と思わない以外にない。それで、自分のお尻や股間を自己が見離し、自分の物と思わなくなるということにもなる。
 自分の躰の一部でありながら、自分の物とは思えないので、誰のものでもないということになる。それがお風呂に入ると、どうしても見えてしまうし、触ってもしまうので、捨てたものが遺失物のように発見されて付着するので、厭な物が戻ってきたと思う。それで再び、自分の物が自分の物でないという意識を再び持つことになる。その繰り返しだ。
 自分の物が自分の物でないというのは、半ば幻覚だが、戻ってきた物が心的には本来自分の物でなく、厭だという想いや失望は、幻覚ではない現実だ。自分のお尻や股間はそういう幻覚や現実を併せ持っているのだ、両性具有者や半陰陽者は。
 これでやっと、ミズルの、高校三年の秋以降感覚的に捉えられていた、アタシのお尻は誰の物という疑問が、まだ完全な姿ではないが、理論的には解明される方向に向かったなと、カノジョには思えた。





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