末日性徒ベルボー 第二章 自己と性世界の関係 -6- 資本の排他性と閉鎖性と人間


 「資本というものの本質は、自己増殖するということにあり、必ずしも労働を必要とするものではなく、その逆に、労働を排除するという属性を持っている。そのため人間を排除することが、自己増殖をより確実なものにすると言える。そこで資本と人間は、反発し合うのが当然のこととなる。資本は常に自己増殖の方途を探り、労働をいよいよ不要なものにするように動く。当然、人間が物でもあるかのように排除されることになる。
 自由競争という名の経済体制にあっては、人間を排除するのは自由であるが、それに歯向かうことは自由ではなく、体制に対する反逆と見なされ、弾圧の対象になり、法に背くことと見なされ、罪となる。そういう現実は人間の心を寂しくする。先進国と呼ばれている国々でも、まだまだ人間性を豊かにする政策があるということである。
 このような、本来的に人間性を圧し殺しているという点で、人間性とは関係ない、資本の属性になっているという状態に、資本主義社会全体が制御されているのである。つまり資本というものは、人間も政治をも非人間化するように作用するものなのだ。それを、人間のためになる要素を盛り込むのは、政治家の手腕でしかありえない。
 しかし、現在的地平では、労働者も政治家も資本家も、人間性を奪われがちである。人間を非人間化する資本の暴走を、人間性の敵と見なすのは当然である。人間的観点から見れば、資本の生の衝動を放任するのは、現在では犯罪行為であり、人獣的泥棒の養成である。このように、資本主義社会に生きている人々は、人間性を剥奪されるのである。それは資本の自己増殖と共に、自己破壊の要素にもなる。
 資本の自由競争というからには、資本同士も相反発し合うものである。資本同士の排他性と閉鎖性も自由競争するというのが、自由主義経済の原則だが、それでは資本の側を弱体化する可能性が高いので、国内的には寡占状態を維持するとか闇カルテルを結ぶことで、自己破壊という要素を抑え、資本の救済ということを計っている。
 国際的には、先進国同士のカルテルへと発展した。その代表がI M F 世界銀行なるものであり、社会主義圏との覇権競争に生き残る道を構築した。その内部に、発展途上国に対する愛の手を差し伸べる政策を盛り込むべきである。
 平和とか愛とか休息という概念は、資本にはないかのごとくである。資本主義国の自由主義に、愛の思考を組み込みたいと、多くの人は望んでいる。しかし、現在的には、民主主義というものは、国内だけで通用するものなのである。愛に生きるという平和主義を輸出しうる機運を盛り上げたいものだ。
 平和とか愛というものも、国内だけに閉じ込められているものであり、その内部で更に、個々人の心に仕舞われているものである。国際的には、帝国主義を標榜しているのであり、それは全世界に自らの覇権を完遂するという意志を表明するものである。そこまでいかなくてもいいではないかと、普通の人間は思うであろう。
 そういう悪魔の無機的本質に律されているのが、資本主義諸国の人々のエコロジーなのである。そういう彼らが、神の前では常に悪を働いていると告白するのは、当偽のことである。その神に、自分達の悪魔を滅ぼしてくれと願わないのは、誠に以て神に対する冒涜と言うべきである。冒涜している神に、崇高な、何を祈れるというのか。
 一方、それに対し、労働者は組合を作って、人間的権利を少しでも増やそうと、使用者と交渉しているが、資本の属性としての労働という立場から免れることは出来ないでいる。自分の人格を資本に無機化され、魂まで奪われて悪魔に操られる存在に身を窶す憂き目に遭っている。雇われなければ労働者にすらなれないという立場は、人間に徹底的に、受け身の弱い存在であるという意識を、そもそもの初めから叩き込まれることになる。
 無機的な非人間的なものに、有機的な人間が屈服するのである。資本が人間を非人間化するという現象が、労働者に対して最も強烈に起こるのである。そういう現象は、人間の手によって無くすことが可能な筈だ。
 そこに労働者の人間としての意識の混乱と、自意識の放棄などによる人間性喪失を受け入れる危機的状況が着いて回ることになる。そういう関係を許容しても、資本の番犬になるだけである。それよりか組合を作り、会社の中で二重権力構造を打ち立てる方が人間的であるという想念を、多くの労働者が実現したいと思う所以がある。資本の鉄鎖から免れているという、妄想を抱いているようなのが気になるが。
 他人の物は他人の物と割り切ることが肝心である。そして資本とは今まで述べてきたようなものであると、自分に立ち向かってくるものという対象として相対することが、自己喪失を防ぐ第一歩であると、クールに捉える必要がある。そう割り切っていれば、役員になっても平社員のままでも、人間性を追い求めようという意識を失わないで済むだろう。 資本の強固な鉄鎖に対抗するのが、従来のマルクス主義者達にあっては、労働組合であり、プロレタリアートであると目覚め、その指針、つまり、資本によって配備されている生産手段を奪取し、その運用を人民の手に委ねるというものであり、そのために、万国の労働者の糾合団結へと向かった。それは必然的に、資本主義国家及びそれらの同盟国との闘争へと発展する。しかし、労働者は軍隊を持っているわけでもないし、他人のものを奪い取ることの泥棒行為という現実に、非人間性を認めざるを得ない。
 それを、一部の革命家が寄り集まって、政権を奪取するという形で社会主義国家を作ったのが、ロシアのレーニンであり、東欧圏という、社会主義国を名乗る陣営が出来上がり、資本主義陣営と激しく対立してきた。
 帝国主義の弱い環で動乱が起こるので、そこで社会主義革命を政治的に起こそうという、レーニンの[帝国主義論]を、地で行った革命だった。当時、ロシアは経済的にも政治的にも極めて不安定な状態にあったので、突出して強固な革命党の出現で、革命が現実のものとなったのである。
 しかし、その社会主義諸国においても、資本の非人間的属性を抑えることは出来なかったのである。今度も又、資本はガッチリと権力と結びついたのである。それも人民を虜囚とも言うべき状態にしてである。
 自由競争の代わりに、全面的自由の剥奪と、人間管理の徹底化が押し進められたのである。それが、マルクスが意図したプロレタリア独裁の現実化であった。各人は見事に分断されるように資本と国家権力の鉄鎖に繋がれ、互いに疎外し合うことを余儀なくされ、監獄にも等しき社会で苦役に従事させられたのである。
 社会というものを、自分が参加出来ないものにされ、それを傍観するだけの社会人として、自己の内部に閉じ込められてしまったのである。そういう体制を肯定し、賛意を送る統一労働者党なる鉄鎖にも縛り付けられ、それ以外は許されぬイデオロギーをあてがわれたのである。マルクスが指摘した疎外の全てを人民に押しつけるという、反マルクス的人間を大勢生み出したのも事実である。彼らは、社会も個人も、非有機的身体と自然という関係に緊縛されてしまったのである。独裁政治では当然のことである。
 国家完全独占資本主義の政治的人格は、絶対権力であり、独裁者であり、専制君主であり、現人神である。その独裁者の下での体制が、閉鎖性を進展させることは、自ら内包している要素であり、資本主義の原初形態でもある。それを徹底的に押し進めたのが、スターリンの一国社会主義なる方針だった。これにより、同胞とも排他的関係になるという、原初資本主義の本質を地で行ったことにより、資本の自己破壊性を大きく成長させ、経済的競争力という本能も生産性も無視され、後退を余儀なくされてしまった。
 資本の本質的属性を抑圧した結果、経済も人間性もが成り立たなくなったのは、皮肉な結果である。それは資本制生産を根本とする社会では当然の成り行きである。この世界経済の発達した環境の中で、一国だけで資本主義経済が成り立つと考えたのは、あまりに世界認識に疎い人物だったと言えよう。ごくごく初歩的なところで、重大な間違いばかし犯したのが、ソヴィエトロシアの政策であった。
 その結果、資本は活力を失い、本来引きつけていた筈の人間と遊離し、政治家をもその属性の内から失ったのである。そして共産党の解体へと突き進んだ。それで、計画経済と名打った、統制資本主義、ないし国家完全独占資本主義は壊滅した。それを体験した世界が、その轍を再度踏まないという保証は無い。優雅に乗り越えて欲しい。
 マルクスの理論が、それらの国で全面的に実践されなかったのは明らかだが、しかし、マルクスの理論の墓場になったことも、以上のごとく事実なのである。東欧圏は、資本主義から一歩も脱却したわけではなかったのである。
 人間は、生き物としての生の資本とは相容れない存在である。料理する必要があるものだ。人間も政治も資本の属性になり、資本に社会生活全般が制御されるという面がある。つまり、資本というものを社会と人間活動の軸にすると、人間も社会も非人間化されるということを、資本主義経済の歴史は示しているのである。そういうことを、社会主義という体制は、教訓として遺したと言えよう。資本というものは、人間の手により、その効能を管理される必要があるのだ、人間社会を基にするためには。
 であるから、来るべき人間本位の社会は、資本制社会を超えるものでなければならない。そういう社会の人間と文化の生態=エコロジーを考えようと、私は今研究中なのである。生産の仕組みは、その面から演繹されるべきものだと思っている。そのためには、ロシアの社会の混迷を、もう少し見物してみたいと思っている。
 というのも、あれらの国ではまだ、人々は資本の排他性や閉鎖性から免れたばかりで、それに気付く可能性が大だからであり、新種の社会形態を打ち立てる可能性を秘めているからである。これから当分、あれらの国の混乱は、世界史を画する要素を幾つも見せる可能性があるので、注意深く見守る必要がある。人間性の多方面に渡り、興味深い局面が現れるだろうと思う。マルクスを乗り越える思想家も出てくることだろう。」
 こう、石滝教授は、エコロジーの出発にあたり、資本と人間の関係を総括した。ミズルは大いなる感銘を受けた。





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