末日性徒ベルボー 第一章 性と人格の乖離 -6- 仮面の精


 ミズルにとって、自分の躰が自己とは異質なものであり、自分は自己にとって縫いぐるみの表皮であり、着せ替え人形のマネキンでもあるという風に感じていた。いや、自己にとって、中身である自分は在ったり亡かったりするものでもある。一種の透明人間なのである。具体性の、或いは、具体的性の喪失とでも言うべきかも知れない。それは、自己にとって自分の肉体が肯定も否定も出来ないものである以上、当然の論理的帰結だった。在って亡きがごときものという身体なのである。
 自己は自分を滅ぼしたと、ミズルは感じている。その最たるものが、高校時代の最後に皆の前で感じた、お臀が自分のものでないという、奇妙な感覚に始まる肉体疎外の体系化だった。いや、肉体を自己の眼差しの前に磔にすることを、無意識のうちに追求した結果かも知れない。それは、もっとも官能的な部分の破棄という意識に因るものであると自覚していた。
 そう感じるようになったプロセスを描いてみよう。最も官能的な部分であるお臀が、そこが男なのか女なのかを、決定的に吾ながら判断し難いものであるという、思い悩めるものだということ。それでそのお臀が自分に着いているものでありながら、自分のものでない何かだと感じるためだ。
 それがミズルの性意識の端緒なのだ。こういう感覚はまだ思考として練れていないが、徐々に思考が噛み解す対象になってゆくものだ。
 性別というごく普通の自然観から逸脱しているために、自分の性とは何なのかという、懐疑に似た自問を繰り返させられるという、一般性から弾き出される部分であり、非在感を見せつけられる部分なのだ。それも、自分のお臀は誰のものと思いあぐねることになる要素だ。自分の性を自己肯定出来ないということである。
 お臀は自分から離脱し、自分は性世界から脱落するということを強く感じさせる主体だ。お臀が思考してくれたらなあと、密かに願うものでもある。お臀がその持ち主たるミズルを突き放すということだ。自分のお臀に自我がそっぽを向かれるということだ。
 お臀の人格と頭の人格が相伴わないのだ。顔もお臀も別人同志といった関係でくっついているのだ。互いを考えると、別れてしまうという思考が、それに伴っている。それは当然のごとく、自己肯定出来ない肉体と頭ということにもなる。そういう意識を分娩するのが、自分のお臀なのだ。
 頭もお臀も互いを他人と感じてしまうのだ。それが自分のものでありながら、別の人格のものだと、曖昧模糊とした感慨が残る、しこりのように。そうであるから、自分は男であるとか女であるというような、性別についての言明や認識は普段しないことが、アンビヴァレンツに陥らないで済む条件なのだ。
 一方では、そういうアンビヴァレンツな頭とお臀という感覚が自分を苦しめるのなら、自分の肉体の官能と人格を穢すことが美しいと感じてしまう。それが、自動車教習所からの帰り道で、狂気のふりをして、ウンチョを大量にお漏らししたズロースを、おかま倶楽部員の部屋に叩き込んだ動因でもあった。
 クソ=バカ=オカマというわけである。それは、ミズルがオカマ以上に男存在を意識させる部分を否定したがっていたためであり、同時に、女存在をも否定したいためであり、その片方しかオカマが実践しないことに対する、ミズルの官能の拒絶反応なのである。そう、オカマは自分の男という原形質を否定し、幻想の女存在を否定しないという、片手落ちで満足して悦に入っているのである。そう、自分の糞を忘れているのだ。そう思ってミズルは、カレラに糞を食らわせて、一人満足したのである。カレラとも違うという認識故の行為だった。
 自分には同類はいないという、悲劇的内面の孤独な叫びでもあった。それは、自分のオンナという外観は、ウンチョを垂れることで穢すことによって美化されるという、アンビヴァレンツな美意識の持ち主であることの内乱状態の結果でもあった。内実を争乱あるごとに喪失する自己が性を感じる、最初の抵抗だったのかも知れない。そう、官能まで内向化しようとしているのである。
 他人に見られることに官能の心地よさを感じられず、穢れることによって、自分で官能の快楽の捌け口を作ったのである。それがウンチョ大失禁の動因である。そのお土産を振り播くことで、自分を社会の一員にしているつもりなのである。
 その一方で、オカマこそ、本来の意味で、オンナという第二の性にアンガージュマン(自己拘束)している代表なのである。それは直接的女の性器を持っていないという点で、徹底的に自己欺瞞なのであるが、それ故に仮象のオンナであり、美の模造なのであり、うたかたの性なのである。
 そこには表面の女性性という意識が花咲く世界が開け、自己を透入するという可能性を磨く地平がある。自己喪失の美学という点では、極めて現実的女性の美意識を刺激するものである。自己を他人に預けるという点でも女性的行為であり、女性の願望と多くの共通点を持っているのである。
 それは女性が現実的に憧れ、男の前で見せる、華やいだ柔弱性への意思とでも言うべき、自己喪失を受け入れて優しくして貰いたいという、赤ちゃんへの回帰現象と同質の、甘味な官能の放恣さの発露という快楽なのである。それは決して、単なる自己放棄ではなく、官能の快楽への全面的アンガージュマンなのである、男を媒介にしてのものなのであるが。それ故自分をエロスの妖精に仕立て上げようと努力し、男の気を引き、その世界に浸り込みたいという、快楽の欲望への自己投企なのである。
 であるから、極めて華やかに見える世界であり、そのヒロインになりたいと欲するのである。しかし、何かを放棄するのである。それは自意識の主体性である。それを見せつけるのが、オンナの上品さだと思っているのだ。オンナはそれらを競い合っているのだ。いわゆる[オンナの闘い]というものである。
 ボーヴォワールが最も否定したがっていたオンナの姿がそれである。他人依存の寄生的女性のある姿を否定しようと欲したのだと言えよう。自己を他人のものにするという、一般的女性の生態は、何も個人主義の産物ではなく、社会構造の産物であるからこそ起こる現象であるから、その社会構造に盲目に従っている姿に対する批判は、とりも直さず、社会に対する抗議でもあるのである。それがボーヴォワールの神髄である。
 それは先にも記したように、女の肉体を持っているということにより、女存在を否定するという直接性を持っている分、オカマとは異質である。オカマの女性性は幻想を模索するものであり、ボーヴォワールの女性解放は、幻想の破棄というもであるから、かなり異質である。異質であるからこそ、オカマの存在余地とも食い違うのであるが、ボーヴォワールの目標は、女という直接性を、男と対等にしようというものであり、男になろうというものではない。
 それらに対し、ミズルの立場は、両者とも異なるのである。ミズルには両性の肉体があり、どちらにもアンガージュ(自己拘束)出来る筈だが、同時には出来ず、又、時により変わるという面で曖昧なのである。それは実際には、性を表現していないという内面の意識でいることの方が多いという点でも、特異な存在様式なのである。何もオトコやオンナにアンガージュしなければいけないということはないのであり、自己欺瞞に自己が捕捉されないでも生きているのである。しかし実際には、その生きているという感覚が普通の男女より希薄だという事実がある。
 性に自己を組み込んでいないにも拘わらず、性を付与されるという、受け身をあてがわれるという、奇妙な状態に置かれているのだ。それは自分では肯定出来ないものなのである。そのために、常に社会から浮いていると同時に沈んでいるのである。男の自己投企も女の自己放棄的投企も好まない性なのである。いわば[仮面の精]なのである。仮面は、オトコの美もオンナの美も裡から滲み出るという点でも、ミズルに相応しい[ベルボーの精]としての隠喩のような生なのである。
 オトコとオンナを表出し、更にそのどちらとも断定出来ないが、孤独な美を静かな空間に包んでいるという意味でも、[仮面の精]なのである。ミズルはそう自分のある姿を考えていた。男性的要素も躰に宿しているため、ミズルの顔付きは、どんなに上手にお化粧しても、どことなくボーイッシュな趣を漂わせている。それでいつとはなしに、[ミス ダンディー]とか、[マドモワゼル ベルボー]と呼ばれるようになっていた。そう呼ばれることは、ミズルにとっては心の逸楽だった。
 そういうミズルが、普通の性の若者に、独特な個性的雰囲気を持っていると思われて当然だった。もっとも、彼らにその個性が理解されているわけではないのだが。その個性が、苦悩を凝縮したものだとは誰も気付かないほどに、ミズルのマスクは整っていた。しかし、仮面の下の素顔を想像する、ないし考えない人物はあまりいない。ミズルのその個性的マスクを素敵と感じる人達は特に、想像する、ミズルの本性を。そう、ミズルは一部の男女の興味の的になっていた。
 男を求めることもなく、女友達を作る気配も無い。友達も恋人も欲しがらないという、変わった人物であるからだ。それでいて他人の視線を吸い寄せるオーラを発散しているのだ。ミズルは、その、自分が不可抗力的に発散しているオーラにとまどいを覚えている。それは他人を求めているのではなく、自分の孤独の本質を表明しているものであり、それ故、そのオーラに親近感を覚えて欲しくないのである。しかし、オーラというのは目立つのである。というのも、普通の人間はそれを強くは発散していないからである。だからミズルは、物の怪が乗り移っているのよなどと陰口を叩かれるのだ。
 そんな中で、ミズルは、自分の性の孤独を純化して行った。すると奇妙な厳然たる事実にぶつかったのである。ミズルには、男女両性の性器的快楽があるのだが、それを統御しているのは、違う人格だということ。ミズルの脳の構造は、男女両方だという、稀に見る性の証を示す原形質を際だてるのである。
 例えば、ミズルが女の肉の快楽のオルガスムを求める時、頭では男のこともある。男の脳が女体の肉の快楽を求めるということだが、そういうことが実際に起こるのである。その反対に、女の脳の元で男の肉の快楽を得るということもある。といっても、ミズルには前立腺はないので、オルガスムもごく弱いものだが、ほんのちょっぴりクリペニスから精液が射出される。
 しかし、女を抱く想いで女として或いは男としてオナニーするということはないのである。つまり能動的ではないのだ。自分の受動的女性の性器的快楽を、男の脳で統御することがあるということだ。それと対照的に、女の脳で自分のクリペニスを愛撫するということが起こるのである。クリペニスも受動的なのだ、ミズルの場合。女の快楽を得ようとする時も、他人のペニスを思い描くことはない。つまり、男の時も女の時も受動的であり、他人の性器を思い浮かべるということはなく、専ら、自己充足的な受動態の状態にあるのである。
 肉体の快楽は女性的であるが、心の快楽は男のものであるという場合と、その逆に、肉の快楽は男性のものであっても、心のエクスタシーは女のものであるという場合もあるのである。その二通りの性欲の昇華の様式を持つ躰、それがミズルの特異な性の在り方なのである。
 しかし、そういう行為と頭の関係は、芯からしっくり噛み合っているわけではないのだが、つまり多大なる疑問、これが自分の性だろうかという疑惑を突き返されるのだが、現実なのだということで揉み消してしまう心の矛盾が、常に付きまとっている。それはしかし本源的には、多大なる不安となって性に密着して、性行為を脅かしているのである。そう、快楽と共に不安のオルガスムを覚え、頭と躰を悩ませるのである。自分の性器が自分のものなのか、自己を構成している内の他者のものなのか、定かでなくなってくるのである。
 それがナチュラルでないということを、何か不安として案じているのだ。しかし、ナチュラルでないから病気だというわけでもないらしく、未だに精神からくる失調が下半身を犯すまで到っていない。それは、対象である性が、幻影だからであり、実物ではないということのためでもある。自己完結した性世界に閉じ籠もっているのである。
 それは自己と他者の混同を招き、自分の性器が他者のものになりがちで、それが他者をも飛び出して、他人のものになってしまうという感覚に陥るのである。それは当然、官能の失調となって自分に跳ね返ってくるのである。
 これが先に書いた、肉体疎外の体系化の内実の根元なのである。自閉的両性具有者が陥り易い、非対象故の自己撞着に起因する病理なのである。しかしまだ、ミズルは病気に罹っているわけではない。それを予感してはいるが。よく、両性具有者は分裂症に罹り易いと言われる要因はここにある。
 それは、思考上辿り着くだけの病かも知れないし、何も考えなければ不安だけで終わるものかも知れないが、断定は出来ない。いずれにせよ、病気になると決めてかかることは間違いの基であるから、そうは考えないこといしよう。ギリシャ神話に出てくる両性具有神である、ヘルマフロディトスは、そういう病気に罹ったとは書かれていないことだし。その両親である、ヘルメースもアフロディーテも精神病に罹ったことはないし。
 ミズルの性世界は、かくも複雑であり、その分多くの可能性と共に危険性を併せ持っているのである。カレ=カノジョが自分達、すなわちミズルに合体している躰以外に対象を持っていないという現状は、男と女の両性を醸し出す一つの仮面を被っているということと同義であり、閉塞した性世界を持っているということを告白するものでもある。それが独特なオーラとなって発散されるのである。
 そういう状態が個性と言えるかどうかははっきりしないが、ミズルには独特な雰囲気が漂っている。それが確固としたアイデンティティーになっていないことは明白であるが、そういう雰囲気に引きつけられる人もいるし、憧憬の念をもって求める人もいる。ミズルの近くに寄って集まる人も数人いるのだが、まだ挨拶したり、会話を交わしたこともない。 仮面を透かして、互いに相手を確かめようとしている段階である。互いのアイデンティティーを披露する機を窺っているようにも見える。どう挨拶すべきか模索しているようでもある。仮面を被ったままではやりにくいのだが、脱ごうとはしない。又、あいての仮面を剥ごうともしない。
 雰囲気で接触するという、ある種の動物的接近法と言えるかも知れない。雰囲気に引きつけられ、その範囲にいると安心しているようでもある。何とも奥ゆかしい態度物腰で、そばにいるのである。それがいつの間にか、彼らの絆に変貌して行くかのように、彼らはいつもそばにいるという関係になっていた。顔ぶれが揃うと安心するようでもある。仮面の下の表情は、既に友人と見て和んでいるようだ。
 遂に仮面と仮面が向かい合い、片方が顔を傾げて挨拶した。もう片方は頷いた。そういう風にして、四人が挨拶し合った。関係が結ばれた印に、彼らは一緒に食道に降りて行って、食べながら、自己紹介をしていた。ミズルの孤独というバリヤーに隙間が出来たのである。装束から見た目には、男二人と女二人である。それは丁度梅雨真っ盛りの頃だった。他人と話をするという、生まれて初めての機会に、ミズルはやっと巡り合ったのである。





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・末日性徒ベルボー・
1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴あとがき





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