末日性徒ベルボー 第一章 性と人格の乖離 -5- 両性具有者の美醜の意識


 両性具有のミズルには、性の体現ほど厭なものはなかった。背広にネクタイという決まりきった男の記号のようなスタイルにも、フォーマルドレスのような女の外観にも、吐き気を催すほどの反感を抱いていた。それはある意味で人間の系列化、ないし組織的差異化のように感じられたが、それは同時に人間の、性への固定化であるように思われた。そういう関数的体系の中に、水流は入れないのである。自分とは基本的に異質な思考様式なのである。
 何故と言って、水流はどちらにもなれるし、なれないが、どちらへの指向も嫌っているという、独特の意識、望むと望まないに関わらず、いつの間にか身に着いた、性に対する構えを持つようになっていた。それは、水流にとって、性とは、自分にとって他者であるという認識に到っているためである。そのため、性が自身にとって、ある距離を持ったものであるという、普通の人間の密着したものとは違う、剥がれたものとして捉えられていた。そう、剥がれているが故に手に取って眺められるものとして、意識の俎上に乗せられているのだ。
 水流にとって、性は、そのように、分析対象として捉えるのが正常なる対し方のように思われていた。人は生まれた時、男か女かであるというわけにはいかないので。この点、子細に考えてみると、ミズルの考え方に近いボーヴォワールとも、意見を異にするのだ。彼女はこう言う。「人は女に生まれない、女になるのだ。」と。水流は、男にも女にも割れて産まれなかったが、どちらにもならないのだと。
 ボーヴォワールにとって、女も生まれた時は女という直接的な性であるという点で、第一の性なのだが、オンナという仮象の性に自己投企するので、[女]というのは第二の性であるという結論に達した。しかし、それは、直接的な女の肉体を持った性であるということは間違いのないことであり、その肉体の社会性を、意識的により女らしくするだけのことだと、水流には思える。ボーヴォワールはそれを嘆いているが、それは、意識的に自己喪失ないし自己欺瞞だと考えるからである。女という第一の性は、社会には、又男には通用しないと考えるのである。
 仮象の性に自己投企するのであれば、必ずそういう思考上の結論に達することは、水流も否定しない。しかし、それにしても、第一の性、つまり直接的肉体を失うわけではなく、その女らしさを否定するわけでもない。それは出来ない相談だろう。仮象のオンナ、つまり第二の性は、無性ではなく、はてまた、反対の男でもないのであるから、その自己投企は、自己投棄でもない。ミズルに言わせれば、女以上のオンナなのである。この世のオンナらしさの全てをひっくるめて体現する、スーパーウーマンだとさえ言える。それを何故に嘆くかと言えば、そんな素晴らしいオンナにはなれるものではないからである。
 ボーヴォワールにとって、スーパーウーマンは自己欺瞞の増長したものであろうが、普通の女性にとっては憧れの的であることを、彼女は十分承知している。その中に、オンナの特質を数え切れないほど無限定にたくさん持っているという面を見るなら、人間愛を幅広く実践出来る可能性を手に入れることのように、ミズルには思える。ボーヴォワールはそうは捉えず、悲しき自己放棄と考えた。
 ここで問題になるのが、彼女の言う自己とは何かということである。そのことに彼女が言及していないのがまことに残念である。論理がうまく転がらないのは、この自己を問題にしないからである。彼女にとって、スーパーウーマンへの自己投企は即自己投棄であるというものであるから、その自己を思考して欲しかったとミズルは思う。
 仮象のオンナに自己拘束、つまりアンガージュするという時の自己を語って欲しかった。彼女は恐らく、自己と他者をいっしょくたにしているのだろう。この辺で、サルトルとボーヴォワールはかなり違っている。サルトルの自己の概念は多様だが、ボーヴォワールの自己はそれに無関心である。だからと言って、サルトルの捉え方が正しいとも、ミズルには判断しかねる。西欧哲学の主流である、デカルト的自己省察に回帰しようと、ミズルは考えた。
 一応、ボーヴォワールの人間観と言っておくにとどめよう。それはミズルに多大の知的刺激を与えるものだった。性についてこれだけ斬新なことを追求した哲学者はそれまでいなかったのだから。ミズルの性についての思考の起爆剤になったのは事実である。具体的に書かれているということが、とても分かり易いので、性についての思考の入門書として、非情に価値が高いとミズルは思った。
 ボーヴォワールは、第二の性に自己拘束すると、人間性が失われると言っていると解釈しておこう。そのオンナには人間性が亡いと主張していると解釈しておこう。というより、そういう人間にアンガージュ(自己拘束)すると、肉体は悪しき存在になるのだ、彼女の見解では。だからと言って、ボーヴォワールは男を肯定しているわけでもない。女を自己欺瞞に陥れるのであれば、それは精神的犯罪であると、男の罪の多数を弾劾して欲しかった。男は自己欺瞞の悪しき相棒なのであるから。彼女はこの点は、後に述べるように、社会を云々している。
 それで、ミズルは彼女の論陣に物足りなさを覚える。彼女は自分が否定した女になってしまうことを嘆くが、そのオンナの域から出ようとはしないで、そのオンナの意識を掘り下げて、哲学的に科学するというよりは、文学化するという方向性に傾いてしまった。それら多数の点で、ミズルには物足りない。
 ミズルはオンナになろうとして、その莫迦さ加減に激しくむかついて、オンナらしさを引き立てる衣裳を引き裂こうとした。そして、自分のオンナへの拘束を引き裂いた。オンナへのアンガージュマンを否定した。それはボーヴォワールと同様である。いわゆるオンナらしさを下らないと判断した。
 オトコらしさもオンナらしさも下らないと思っている。だから、男や女に化けたくない。その仮面を被りたくない。自らの性を男か女かへ向かわせることに耐えられない。それ故、現実のオンナらしさとかオトコらしさを莫迦げたものだと思っている。いや、どちらかへの自己拘束は、反自分的であると思っている。男も女も嫌いだ。そのどちらかとして生きている人物を蔑んでいる。それはミズルの現実からの遊離と、人間嫌いの自己肯定の基本のようだと思った。フォーマルな性にはなれないので、オトコっぽさとか女っぽさにも嫌悪を覚える。それは醜いばかりだ。
 ミズルは、性から弾き出されていると思っているので、どちらの性も醜いとしか感じない。それを普通の男女は、オトコらしさとオンナらしさを美しい官能として喜んで受け入れている。全くの興冷めだ。性とは、動かし難いものだという観念に微塵の疑問を差し挟まないでいるが故に、性が人間を代表し、支配するものとして偶像視されていると考えている。ミズルの性は、その偶像の足の下に踏みにじられて、世間に現出出来ないでいるのだと感じている。
 偶像化したものはいつか桎梏となり果てる。そうとも気付かずに、偶像を崇拝するかのように、オトコの魅力とオンナの魅力を謳歌している。男はオトコらしく、女はオンナらしくである。それをミズルは、「薄莫迦共が!」と絶叫したい程に忌み嫌っている。自分の実体を肯定するには、そうするしかなかった。
 忌み嫌っているものを美しいと感じられなくて当たり前である。醜いと自覚するものである。現実の男女世界は醜いと思っている。それ故、現実の男女にも気を許せない。毛虫のごとく嫌っている。フォーマルな男女を、パーフォーマンスならぬ阿呆マンスのゴキブリとして嫌っている。だから、そいつらで成り立っている社会も、ゴミ溜のごとく嫌っている。
 人間を性的に粉飾する衣裳を憎んでいる。醜さの象徴だと思っている。性別を感じさせない人物が美しく映る。それは両性具有者の美的満足だが、それは一般社会の中では偏向した美意識であることは承知している。しかし、通常人の真似をすることは、両性具有者にとっては自己欺瞞であり、自己喪失でもあるので、オトコらしい服もオンナらしい服も、滅多に着たくない。それは自分で自分の首を絞めるに等しい。しかし、何か着ないわけにはいかない、自分らしさを引き立てる美しい衣裳を。
 そこで、中性的な衣服を選ぶことになる。それで納得がいくのである、自分に相応しいと。そう感じる自己というものを、後に抽出するべく、ミズルは本を漁っている。その自己が、現実の男女世界に因って敗北したり、押し曲げられたものであってはならないと、ミズルは細心の注意を怠っていない。自分独自の自己を守り、育てなければ自分が生きていく時空はないと、必死である。
 自己は、明らかに単なる自分とは異質な何かであるとミズルは感じているが、それを確かにはまだ認識仕切っていない。自己は自分を眼差し、考える。つまり、自分をオブジェとして思考し、思い描くものなのだということを、朧気に感じ取っている段階にあった。 ミズルが何故そういう考えを抱くようになったかと言えば、自分の性が自己にとって距離のある対象物だと感じていることに因っていた。つまり、自分ではどうしようもない自分の性と考えるだけでも、性は自分の中の何者かの対象にならなければ、どこかに消え失せてしまうように感じるからである。性が消え失せれば、肉体もそれを対象化する自己も霧散してしまうかも知れないと、密かに怖れもし、訝しんでもいる。その状態は、生ける骸であろうと予感している。
 自己というものが個人の内部で占める場所は、脳髄並に重要な部分だろうとミズルには思える。単なる思考を司るものではなく、それをもっと大きな視野で包んでいる何かであろうと予想している。自分を対象化するものでありながら、自分の内部にあるという何かである。自分の個体と自己は弁別されるものなのだ。というような、初歩的発想をミズルは、今までの授業や読書から学んでいた。それを更に深めないと、自分の性が躰から剥がれて遊離して、どこか自分では操れない時空に飛んで行ってしまうような予感に苛まれていた。
 大体、自分は男にも女にもなれないというこの肉体を、肯定も否定も出来ないという奇妙な状態に心身共にある。オンナとしての自分の肉体も厭だし、オトコとしての肉体は嫌悪すべきものという感じなのだ。自分の肉体は美しいものではないという感覚は、心因的作用によるコムプレックスの結果であり、自分の女性性も男性性も歪んで見える。いや、実際奇形だという現実がある。そういう人間だ。自分の肉体が嫌いなら、自分に触られるのも厭なのだ。だから、他の男女も嫌いだ。性を持っている人間が嫌いだ。醜く見える。
 性的所作に吐き気を催す、自分のにも、他人のにも。青春が憂鬱色に翳っている。その中にいたくない。だから誰とも付き合わない。自分の、たくさんある性のシンボルが殊更不潔に思える。おっぱい、乳首、クリペニス、ワギナと子宮。誰にも見られたくない。他人のも見たくない。性に関する全てが厭だ。
 しかし、自分を救うのも性なのだという二律背反に直面している自分を知っていた。それで性科学書もたくさん読んでいるが、それらの書物は好きだ。好きなものがあるというのは、今のワタシには大いなる救いだ。それが何故かと言えば、自分を滅ぼすまでに嫌悪感をもたらす性というものを、柔らかく解きほぐすかのように官能に理解させ、僅かながら性に息吹を吹き込んでくれるためだ。
 いくら性を呪っても、性の衝動は起こる。その快感に全身を制動される。それなくして生きていられないという、人間の性に喘ぐかのようにすがりついている自分が惨めだが、そうせずにはいられないのは不可解な現実だ。自分はオナニーの主人公ではなかったが、オナニーが自分に生気を与えてくれるのだ。こういう関係で、性についての意識と肉体は折り合いをつけていたが、そこに他人が介在する余地は無かった。
 しかし、他人の性をシャットアウト出来ないということが、堪らなくミズルを不愉快にする。オナニーすると、誰かに、それが男であれ、女であれ、自分が犯される図を思い描いてしまうという現象から逃れられない。人間嫌いのミズルに相応しくないこと、最高度に甚だしい。その想いがいつか腐って消えてくれればいいと願う。自分を犯す幻影に災いあれと呪っている。何故、幻影に犯されるのだろうか? これは未だに答えの出ていない生物学上の謎だ。
 それが躰の自然ということになっているが、自分の意識では反自然だ。つまり自分の心に背いているからだ。こういう自分が自然でないと言えるのだろうか? ワタシは自然人ではないのかも。いや、そんな筈があるわけがないと、ミズルは開き直って考える。[ワタシの大自然]と、括弧つきで言っておこうと、ミズルは決め込んだ。
 「ワタシを犯すのが幻影であるだけましだわ。」と、ミズルはひとり言を呟いた。幻影は快楽をもたらしてくれる。しかしそれが本物の人間だったらそうはいかないだろう。ワタシは拒否反応を示し、躰は硬直し、ビクとも動かず、官能は麻痺することだろう。そこに生の快楽は亡いだろう。冷感症への道を突き進むに違いないと、怖れてもいる。これはいびつなディアレクティークだと思った。
 しかしその分、ワタシは人間愛の大きな部分を疎外しているのだろう。それは確かに感じられる痛切な悲哀だ。それがいつか氷解することを、心のどこかで期待することもある、時によって。それも自分を更に孤独に律する要素だった。ミズルは今のところ、幻影の律動を愛しているが、その幻影の素にある程度気付いている、それが男や女の青春の律動であるということに。
 それなくして、いかにミズルと言えどもオルガスムに達することは出来ない筈である。幻影に覆い隠されている肉の本性が生きているのだ。その肉をミズルは自己肯定出来ないのだ。それは、若き半陰陽児にとって仕方のないことかも知れない。
 恐らくミズルは、対人関係に於いても、直接的人物を濃い幻影で覆って眺めていることだろう。ミズルのその濃い影の部分が愛の核心なのだろう。その影に、淡い光の明暗が付き添う時、ミズルは現実の愛の形を読み解くことが可能になるだろう。と、傍目には映る。それがどのような紆余曲折を経てのことかは、まだ誰にも解らないことである。
 淡い人間の影は美しいし、その中に包蔵されている光明の卵を見ることは、いつの日かそれが育って孵化する姿を夢見ることの可能性を潜めているだけに、大事にしなければならない。無理矢理光を突っ込み、心の疾患を暴くようなことをしてはいけない。それはミズルの心の崩壊を促進するだけである。ミズルは、あからさまになることに耐えられない心境なのだから、裸身も心も。こういう裸形の心性に似合う衣裳を着せ、柔らかな春の陽と霞のヴェールで包んでおいてあげたいものだ、暫くは。
 ミズルが自然に慣れ親しむには、経験が必要なのだ。ミズルの思考の発展と先を読む能力の開発と共に。それには、いくつもの偶然・必然の契機を物にし、肉体的にも思惟的にも目から鱗が落ちる想いを積み重ねて行かなければならないだろうが、きっとミズルは己が道を歩んでくれることだろう。その道が穏やかであって欲しいと誰が望めるだろうか、ミズルのような肉体の持ち主にあっては。きっと、スリリングな分だけ、豊饒な薫りに包まれることだろう。
 男でもあり、女でもあり、しかるにそのどちらかになれないという、肉体の現実を抱擁する精神を、ミズルはこれからじっくり指し示してくれることだろう。それが、両性具有者の真実の姿なのであるから。





N E X T
・末日性徒ベルボー・
1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴あとがき





井野博美『短編小説集』TOP
∴PageTop∴

produced by yuniyuni