末日性徒ベルボー 第二章 自己と性世界の関係 -2- 自己と個の分離


 「マルクスやウェーバーは、社会内存在の在り方の、経済学的社会学的な面により、人間が律されていると見た。ウェーバーは、その時代の経済活動に取り組む人間の姿勢を、キリスト教のプロテスタント諸派の宗教的な面から見つめ、その意識の職業観の分析をした。人間を職業に括りつける意識の面を追求した。それが現に在る大半の人間の姿だと診た。それが経済的現実の意識的側面であると考えた。それ故、マルクスの経済学的学問とウェーバーの社会学的学問は、相補的に資本主義社会を分析したものと捉えられている。 それは私に言わせれば、人間存在の在り方を社会のくびきに括りつける要因の研究である。しかし、現代の先進国のほとんどは、人間は自分の職業に身も心も律されて生きているわけではない。又、現代人の多くは宗教という倫理に緊縛されているわけでもない。醒めた意識で、この社会に生起する様々な現象の一つとして見ている。つまり、社会を分析するために、社会の外から社会現象を眺めている。つまり社会内の人間の意識を探るために、外側に位置することを怠ってはいない。
 同様に、自分の生活を維持している経済活動が、人間の生活の全てでないことも見抜いている。そうはっきり意識する、自己というものの存在を認めている。
 その自己がどういう世界に在るかということが重要な、人間性のファクターなのである。生産活動が全ての人間性を規定するものではないし、それに要する思考様式のパターン化に染まる職場の意識が、人間の意識の全てでもないということである。マルクスもウェーバーもそう思えばこそ、現実の社会に係累されている意識や存在様式を分析抽出し、それから脱却する方途を模索したのである。
 しかし、彼らに共通している大きな欠陥があることも事実である。それは、二人とも、自己というものの存在の時空を分析考究しなかったことである。人間は誰しも、仙人的存在の要素を持っているものだ。それがどういうものか、そしてどういう作用を普段の生活の意識に投影しているのかというっことを探る必要がある。というのも、それこそ人間の素顔だと思うからである。
 現実の職業活動には、それに求められる意識の系列化があり、それに合うように、労働に従事する人は対応しなくてはならない。そういう能力を人間は持っている。いわゆる適応能力と呼ばれるものである。又、向き不向きも出てくる。人は、自分に向いていると思う職をこなしたいと欲する。皆そうしたいが、そうはいかないのが現実である。自分の望む職に就ける人はほんの少しだし、就けたとしても、能力に差があるのは当然であるから、競争で生き残れる人は僅かである。
 これは、単に自由競争ということではなく、人間のある姿の自然とでも言うべきものである。個性、能力は千差万別である。それを競うということと争うということも違うことである。資本主義社会は、それを争っている社会である。個人のキャラクターや能力を闘いの武器にし、それに必死にならせている社会である。その結果現れるのは、勝者と敗者とどうにもならない人々ということになる。
 これが民主主義と言えるのだろうか? 答えは否である。それは人間性を闘争させているだけであり、心の平穏を無視し隠し、個人を孤立させ、人間性を大きく歪めるものである。それは社会的症状とでも言うべき病に個々人を罹らせるのである。社会の病理というわけである。そういう風に個と社会を見据える自己がいる。
 その自己が存在しなければ、社会も個も成り立たないにも拘わらず、普段それを意識しない人物が多い。そういうことを言い出すと、会社にいずらくなって損するので、言わないので、心は寂しいものになる。それでは、社会学は人間性を無視したものにしかならない。人間科学も成り立たない。つまり、科学とは言い難いのである。人間性の奥深くを探る必要があるのである。
 そういう従来の経済学や社会学を離れ、人間性の発展という観点からこの世界を眺め、人間の位置すべき時空を考えなければならない。人間が生活する姿、それは[エコロジー](生態学)と呼ばれる学問の対象である。そこでは人間の、自己の存在時空と、それを存続させている産出行為という観点で、この世の姿を捉えようとしている。そういう科学こそ、これから必要な学問であり、人間性を開拓するものとなるであろう。
 では、その学に辿り着く、人間の思惟の基盤を整理してみよう。というのも、このように述べてきたごとく、突如出現した考え方ではないからである。いろいろな分野の学問や視座を分析し、それらの本随を抽出し、それらの連関をはっきりさせることにより、今までの人間解放を求める学の欠陥部分を捨て去り、真に人間の自由を各個人が体現出来るような、考え方の道を探ることが、人間学の目的であることを示すことになるであろう。
 その考えで人間を規定してはいけないということも、内包している理論であるということも明らかになるであろう。このようにも、人間は、どんなに思いやり深い理解で包まれていようとも、それが絶対だということはないのである。それは先にも触れた、そういう理論を見つめる自己が、その外に存在しているためである。それを超えることは出来ない。 このような考え方の基底には、従来の経済学は人間にとって障害物であるという、衝撃的事実がある。又、それに拘わる人間の意識を本質視する社会学も同じく、障害物なのである。それは、マルクスやウェーバーが痛く指摘した通りなのであるが、彼らはそこから脱却する道を見出さなかった。その原因は、前にも述べた、自己と、社会に係累されている肉体である個を分離しなかったためである。自己を、社会的個に固着させてしまったからである。
 いや、彼らの視覚は無意識のうちに、自己の立場から個を係累している社会を眺めたために、社会を分析することが出来たのだが、それを為している自己に気付かなかったのである。そういう自己を想定することは、唯物論的でない二元論であると考えたためである。しかし、その自己は、後で述べるように、二元論なのではなく、人間の思考のあるがままの姿、つまり自然の落とし子的思考生理なのである。その、考えている自己に気付く必要があるのである。その自己の生きる時空の確保こそ、人間が現在まで営々と追求してきたものなのである。
 それは隠れていたが、彼らの思考主である。主体という言葉でないことに注意して戴きたい。というのもその主は、唯分析し、考察している存在であり、それ自身は意識的方向性にはならないからであり、そうなれないものでもあるからである。その主はそうではなく、分析し考えたものをまとめて、個体にどうせよという指針を出すのであり、それを実行する個体を主体と呼ぶのだということを考えて戴きたい。主たる自己は、その主体を眺めているのだということを忘れずに。
 主と主体の関係は、何かの行動を起こす時に問題になるものである。そこに到るまでの過程が大事なのであり、それを欠いては行動は方向性を持たない。従来の社会運動がその典型である。ソヴィエトロシアを初めとする、東欧圏の社会はそういう方向性に振り回され、当然のごとく人間性を崩壊させて、社会も滅んだ。
 しかし、彼らはある種の理想に向かっているつもりだった。マルクスが考えたような、人間解放という概念の元で。それが失敗に終わったのは、主体形成を間違えたためである。それは追々論述するとして、そこまでに到る前の自己、今までさんざん提起してきた自己の世界の、何者にもたがを嵌められぬが故に仙人的存在の発展を目指す、思考主という立場から、社会を分析して行くことにしよう。
 そうすることにより、個の存在様式と自己の立場の相違点が明らかになるであろうし、それにより、個を自己に引き寄せるという形での人間性の獲得の必要性が浮かび上がってくるであろう。そこで初めて、マルクスが主体形成したのとは異なる内容を持った主体が現れると思われる。又、ウェーバーが抱いた人間の意識とは異質な人間の意識が浮かび上がってくるであろう。
 その具体的内容の描出へと舵を取って、さっき述べたように、先達が築き上げたロジックをクリティックしつつ、新しい人間像を描き出そう。経済分析と、それに付随して起こる職業によって人間にあてがわれる意識のコンバインドを分析するのは、マルクスとウェーバーの統合と脱構築にあることは、先ほどから述べてきたごとくである。
 その精華と錯誤を大雑把に把握したので、今度はそのクリティックの要素を辿ることにしよう。経済学や社会学に拘泥しないで、人間科学的視野で問題点を取り上げ、考えるつもりである。それは何度も言うが、自己の世界の豊饒性を見出して行くことに結果し、それを護りつつ自己を発展させうる行動の質を示すのが目的である。・・・」
 と、こう、ミズルが九月から受講した社会学の教授が、自分の学問の最初の触りの部分を講義したので、ミズルは気に入った。自己と個の分離を明快に指し示しているからである。経済学のことは良く解らないが、エコロジー(生態学)には多大の興味が沸く。それは、自分の生態が気になってしようがないからである。自分は、性の生態学を研究したいのだが、そういう講座はないので、ひとまず、この教授の自己と個の分離の理論を辿ってみようと思った。そのうちに、自分固有のロジックを構築したいと、大きな目標を持っている。ここでいう個と自己という言葉は、サルトル風に言うならば、即自と対自に近いであろうと、ミズルは思った。
 個と共同体との関係。それを見つめる自己の立場。個と自己は、同じ一つの肉体から派生しながら、異なる様式と異次元の存在になりながらも、一つの個体で共存するようになって行くという現象。しかし、共同体での性と、自己の性の違いが明らかなのがミズルのある姿なのだ。ミズルの自己には、オトコ存在もオンナ存在も共存しているためだ。両性人間という戸籍はないため、片方を公式には隠さなければならないのだ。それは大いなる苦悶であり、屈辱でもある。性的拷問でもある。
 そういう苦悩を常に抱いている。自分では、片方の性を締め出すことは出来ないにも拘わらず、公式の席に出るには、片方を削り取られる。それは公式というものの範疇が、性ということに関して、極めて狭く、閉鎖的であることに起因している。ニューハーフの人物は最近増えているが、ミズルは生まれついての両性具有であり、百万人に一人の割でしか存在しない種族であることに、誇りを持っている。その生得の性が何故か認められないという人権侵害に遭っているのだ。公式の場に出る時、それがもっとも顕著なので、ミズルはなるべく、そういう場に出ないようにしている。
 公式の場では、自分の変哲な性だけ目立ち、その分自分でも皆と和することが出来ず、違和感に領され、自分の心を自他共に無視されるという悲哀に犯されるので、心がぞっとする世界を身に引き寄せ、居ても立ってもいられないという精神状態に陥ってしまう。自分の今の外見だけ見ておかしいと思わない人に対しては、自分が何か隠している、自分の性の半分ずつをどうしようかと思い煩い、社会からは半分を剥ぎ取られるという現実からくる社会に入り難いという意識などを、両性具有者の苦悩の現実として打ち明けたいのも一方の心理である。
 そのようにも、生得の両性具有ということについて、誇りとコムプレックスの両方を、この男女のどちらかでしか存在しないのが基本の性社会では、感じざるを得ないのである。そのため、公式の行事にはなるべく出ないようにしている。そうせざるを得ないのが残念でもあるのだが。というのも、自分の誇りを、公式のものにしたいという願望を持っているからであり、いつかそれが可能になる日が訪れるのを、密かに待っているのだ。
 その最たるものは結婚だろうと、ミズルは期待もし、不安にも思っている。自分を本心から受け入れてくれることを望みたいが、そういう愛の相手に出会えるかどうかは覚束ない。自分が心に留めるべきは、性の十字架に掛けられている人達への献身ではないだろうかと、ミズルは密かに思っているが、未だに同類に巡り合ってはいない。それは何も、それらの人達に思いやりを施すというような傲慢な思いからではなく、互いに頑張ろうと励まし合い、互いに自己を研磨したいためである。
 それはさておき、スカート穿爵の家で、男である霊界人と初めて性行為してから、生理になった時、女性ホルモンがドバッと出てしまい、まず下り物が出るところを、いきなり激しい出血に見舞われ、それから数日というもの、半狂乱のごとき心身の錯乱状態に陥ってしまうという経験をした。まないたに出刃包丁を突き立てたり、キャベツを丸のまま置いて、それを、なたで叩き割るかのように切ったり、髪の毛をうんと短くして男っぽくしたりと、いろいろ普段と違うことを勢いよくやったかと思うと、とても躰が怠くて、一日中寝ていたりなど、珍しい日が五日も続いた。
 そういうことになった後で、あれは本当の自分だったのだろうか? という懐疑の念に襲われていた。自分ではどうにも収まりがつかないということが、その懐疑の念を抱く原因なのだが、カノジョには、オンナの生理というものが、自分の肝心な一部を、自己により捉えられる裡なる他者のものと感じる癖があるようだった。自分の肉の快楽だけは放擲出来ないのだが。





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・末日性徒ベルボー・
1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴あとがき





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