末日性徒ベルボー 第三章 両性具有者の意識 -1- 裡なる他者としての性
ミズルの、躯としての性を抱えていると感じるということは、生きている他者だからこそ起こる心的出来事なのだ。そう、ミズルにとっては、自分の性は他者なのだ。ここで言う他者とは、他人という意味ではなく、ミズルの肉体の内部に棲息する、自己の対象物としての存在のことである。
自己というものは、自分の肉体より派生して自分を見つめ、自分の在り方を指示するものだが、その自己に眼差される、自分に直接的に重なっていないものとして感じられる存在ということである。そういう存在としての性が、ミズルにとって裡なる他者ということである。その典型が、自分のお臀が自分のものでないという感覚である。
それが自分の躰に宿る棲息物としての性であり、ペルソナに映る仮象のマスクなのだ。そしてそのマスクは、本人にとってさえ幻影なのだ。それは幻影なのだから、確かなる肉に宿っているものでありながらも、生命感を感じさせないものなのだ。
肉体を蝕むわけだはないのだが、生命に裏打ちされていないという感覚を、性がもたらすのだ。それ故、死んでもいないが生きてもいないように感じられる存在なのだ。このように、性と肉体が相剋し合うように同居しているので、当然、乖離したものとして意識されるようになる。それで、性というものが裡なる他者として、自己により把握されることになる。
それは他者であるから、ある種の存在の幻影により浮き立たされつつ、それ固有のマスクを見せるのだが、それを自分のものとして、強く認知することは出来ないということを同時に感じさせるので、儚さを醸し出す面でもあり、自分にとって本当の素顔ではないと思われるものである。その意味で、本来的に仮面なのである、自分の顔である面そのものが。素顔は自分の本来のペルソナを顕わすのではなく、肉体と意識、自分と他者といった、存在の諸相を垣間見せる仮面として、自己により見据えられるのだ。
このように、自分の顔が自分を代表するものではないという想いが、両性具有者にとっては当然のこととなる。自分の素顔は、マスクにより覆われ、生気を固められ、内部にのみ目を向けさせられるようになる。それで、鏡と対峙しているような感じを常に抱いている。他人の視線は、自分の仮面に突き刺さりはするが、自分の素顔を見ることは出来ない。それは本人にとっても快いものではなく、本来的に残念なことだが、初めのうちは、素顔のか弱さを庇ってくれるものでもある。
しかし、同時に、他人の棘のような視線を受けると、顔に生傷を負うような気分になるのも事実である。要するに、この仮面には血が通っているのだが、血が流れるのは表面にではなく、仮面を表出しているところのペルソナに於いてなのである。この仮面は、血が通っているだけあって、内部に感覚を伝えることも出来るのだ。
そのような基本的な点に於いて、この仮面は生きていることを顕わすものであり、死んでいることを顕わすものではなく、まして生きているものを隠すものではないということを強調している。その点、普通の仮面とは異質である。
にも拘わらず、自己にとって、自分を顕わすこの仮面は、素顔とは異質なのである。両性具有者の素顔を見ることは、自己に理解されるということに因ってなのである。見るだけでは解らない心を持っているのは誰でも同じだが、両性具有者は、自分の眼差しに対しても、そういうことが当て嵌まるのだ。ということは、自分のペルソナは、仮面の下に本来の自分を展開しているということであり、その意味では、仮面はやはり仮面なのであり、素顔ではないのだ。
自分の内面に自分を映す鏡が出来上がるのが、両性具有者の初歩的自己認識に繋がるのだ。その鏡を他人が見ることは出来ないが、本人は常にその鏡に映る己がマスクを自分固有のものとして眺めている。つまり、内部に映っているという点が、普通の性の人と違うのだ。内部に本当の自己がいるので、内省的になるのは当然である。その内部に隠れるようにして棲息する自己のペルソナにより、外部を眼差すものが、他人が見ることが出来る、両性具有者のマスクなのだ。
そのマスクの空洞のような眼から、両性具有者は外界を垣間見ている。であるから、見るという行為は、自己の世界からの眼光の投射である。肉体のマスクの眼は、その媒介であるところのレンズ、つまり生得の水晶体に過ぎない。しかし、それ無くして自己は何も外界を覗くことは出来ないのは言うまでもない。そのレンズとは異質な心の眼が肉体に場を持つ鏡を見つめ、本来の自分のマスクを心に投影させるのだ。
つまり、心に鏡が認識されることと、自己というものが生まれるのは同時なのだ。その両者がが揃って初めて、両性具有者は、自分の外貌を分析し、肉体のマスクと心のペルソナの違いを認識し、自分と自己を識別するようになる。こういう具合に、肉体のマスクの内部にこそ、本来のペルソナの時空が繰り広げられるのである。その内的世界の現象化をまず心がけることから、世界への係わりを持つようになるのだ。
このように、両性具有者の相貌は、見ただけでは解らないものであり、理解されなければ見えないということである。見ることと、理解するということの違いと関係を見せつけるものである。
このような、見ることと理解することの違いと関係について、ミズルは、メルローポンティーの[眼と精神]という本や、ルネ・ユイグの[見えるものとの対話]とか、ソシュールの構造言語学と、それに端を発する諸人文科学、なかんずく、日本の哲学者、坂部恵の著作物から発想を得て考えるようになった。そして奇妙なこととミズル自身思うのだが、ブルトンのシュールレアリスムについての書物から、はっきりとは形を成さない思考として、思考についての暗示を受けていた。
いや、理解するということはどういうことかを追求する道標を、これらの人達の書物から読み解いていったのだ。それらの、対象に対する接し方は各々違うのだが、ミズルの思考の中では何とか関係あるものと捉えられていた。そしてその結果が、自己というものの、理解に対する影響力の決定的大きさなのだった。自己というものを形成していなければ、理解出来ないということだった。
水流は極めて多読な方で、一日中何か読んでいた。そして珍しく空いた時間には、デッサンを描いていたので、いつの間にか、自分の相貌というものを、視覚の面からも捉える術を身に着けていた。そして毎日必ず、自分の思念を日記帳に書き連ねていた。使う用紙は真っ白な、パソコンのプリンター用のB5版の紙で、デッサンを描けるので便利なのと、定規のようなもので引かれた、企画化された線が多数入っているのは邪魔で嫌いだという、ミズルの性癖によるためだ。
それらの用紙には予め、パンチで二ヶ所に丸い穴が開けられていて、描いたら、ファイルしてゆくのに便利だった。一年に一冊のタブレットが出来上がった。その二年目のタブレットの内容は、この、裡なる他者という哲学的考察で充満していた。
性はミズルにとって、裡に在りながらも他者なのだという、自己に対峙する対象なのだという事実を、その突端から書きほぐしていた。それも、自身の肉体の内部で、動くものの、それが自身によって制御されているものではないという、生物学的事実なども記されていた。
哲学と生物学が、性というものを考える時、関係が深いのだということにも気付き、メルローポンティーの、[知覚の現象学]や、[行動の構造]などの本も読んで、知覚と認識と、行動などについての基礎的考察の例を知った。
自己と他者については、サルトルの[存在と無]や、デカルトの[方法序説]や[省察]とか、E・ジェイコブスンの[自己と対象世界]や、E・レヴィナスの[時間と他者]や、E・ユングの[内なる異性]などを、片っ端から読み漁った。
マスクについては、坂部恵の[仮面の解釈学]や、[ペルソナの詩学]とか、[鏡の中の日本語]や、ソシュールの構造言語学などから、多大のインスピレーションを得ることが出来た。
ミズルは、それらの本を原書で読めたら、どんなにか素晴らしいことだろうかと思い、外国語の学校にも通うようになった。そう、読書と勉学に忙しかったミズルは、アルバイトをする暇もなかった。学生のうちから歪んだ社会を知り、その歪みに順応すべく、純粋さを失う学生が多いことに、ミズルは堪らない不快感を覚えたせいもあるのだが。
読書の中で印象深かったのは、サルトルの[存在と無]と、メルローポンティーの[眼と精神]という書物のロジックが、そっくりだということだった。メルローポンティーのは 散文的なのだが、論旨が一貫して流れて行くロジックの群が魅力的であり、理解し易いのだが、サルトルの文章は、事細かに重複して書かれている割には、ロジックがポツリポツリと出てくるので、論脈を読み取るのに偉い苦労をさせられるという感慨を持ったが、要点は同じだと思った。用語も共通しているし。
ハイデッガーとそれらの哲学者に共通する用語や考え方を、E・レヴィナスの本が、基礎的に説明しているので、それもミズルのような、まだ哲学にあまり造詣の深くない学生には、実存哲学に取り付く手引き書のようだと思った。
ミズルは、これらから、自己が突き当たる対象を読み解くキーを与えられたような気がした。他人や自分の眼差しというものにカノジョは過敏だったが、それらが、極めて哲学と関係が深いということが、カノジョにとっては幸いしたのか、自分を知る上で、垂涎の的のごとき作用をもたらし、自己というものを確立してゆく足がかりになった。
哲学の本を紐解いてみるまで、堅苦しいものだろうと思っていたそれらが、自分にとっては極めて肉感的といい得るほどに自分の官能や理性に浸潤してくるということに、びっくりさせられた。それらの本を読んだというより、本に自分の心を読まれたと言える感慨を抱かせられた。それは素敵な相互理解の初体験でもあった。その相互理解こそ、対象に対する接し方なのだということを、ミズルは感銘深く理解した。
唯、残念に思ったことは、現実の大学の教授の講義が、学派という学閥に拘り過ぎていて、理解の範囲を小さく小さく固めていこうとすることだった。ミズルのように、書物から、それを超えてイメージを広げようという、ロマンティックな読み方が、学問的でないとされることに、理解不能な不条理を感じざるを得なかった。それに反発するかのように、ミズルは、理解とイメージを深めるべく多彩な読書に励んだ。
物事を理解するに当たって、学者の真似をしてはいけないという、極めて由々しき事実に突き当たって、びっくりしてしまった。こう理解せよと、事象を限定してしまうことに、カノジョは、とまどいと驚きと、不満と失笑を禁じ得なかった。事実を分断することは、誰にも出来ない筈だが、現実の学問はそうしようと骨を折っているようで、滑稽でさえあった。
分析しようとすると陥り易い穴なのかも知れないが、そんなものは本当の学問ではないとミズルには思われた。真実を小さくしてしまうことと、八方破れに解釈することは、正反対に見えるかも知れないが、同じような失敗なのだ、真実をその通りに捉えないという点に於いて。
真実を小さな断片にして、それでその学問のオーソリティーになっているような学者には、失望を越えて怒りさえ覚えるというのが正当な評価だと、言ってやりたかった。残念ながら、ミズルを満足させる、スケールの大きな学者はいなかった。それで、カノジョはいろいろな大学に散在する権威の講義を盗み聞きに出かけたが、大同小異といった観だなと思った。学問をするというよりは、学閥を固める努力をしているようで、忌々しかった。 実際、講義を聴くより、本を読んだ方が、本物の学問が身に着くようだった。それでミズルは、サボッテ遊ぶために授業を欠席するのではなく、本物の知識を得るために図書館に行くべく授業をサボった。こういう具合に、ミズルにとっての大学での日々は、まず自己というものが自分の内面に発芽し、それが育って行く過程そのものを体験していると言っても過言ではなかった。
その自己こそカノジョにとってのアイデンティティー(自己同一性)である。カノジョの場合、そのアイデンティティーは、男女というどちらかの性に裏打ちされているものではなく、どちらをも見通すものであるので、自己の眼差しにより顕現するのが己が性であるという、一般人とは異質な在り方を基底にしているのだということに、カノジョは気付いた。
ミズルは、オトコというマスクも、オンナという外見も、両者とも心の裡から形象化出来るという事実により、性に拘束されない自意識を形成し、世界に顔を出すのだ。このように、ミズルにとっては、性は自分の裡に在って確かに抽出可能な他者であるという、特異なものなのだ。それ故、性は、常に自分の主語になれないが、表面ではあるという関係にあるものなのだ。外面の性は、容易に取り替え可能な仮面なのである。
しかし、内面の性は両方揃っているが、取り替えられるのは外面だけである。内面の性は、オトコもオンナも肉体に発芽して成長し、複雑な性意識を生み出したのである。そういうことにミズルは気付いていった。
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