両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第一章 再出発   -1- 幻覚でお早う


 里中家での最後の眠りにワタシは就こうとしていた。千九百九十一年九月三日、火曜日の深夜。窓辺のラジカセが残暑厳しい中、槍で突き刺されて絶叫する若者の苦しげ な呻き声と、エクスターゼに喘ぐ若い女性の呼吸音がリズムを刻み、フランス語の語りと、ラテン語の聖歌隊の合唱の混じった曲を流していた。フランスで買ってきた、エニ グマのCDだ。
 夜着に着替えたワタシはベッドに滑り込み、蛍光灯のス イッチに繋がる紐を引き、一つずつ消し、パイロットラン プの明かりだけ残した。ワタシはうとうとしかけたが眠れ なかった。
 コトコトと音が、本棚から聞こえてきた。フト見やると、 本棚に乗っている縫いぐるみの兎ちゃんが踊っていた。不 思議だわと思いつつ見ていると、何か黒い影が兎にぶつか ったような気がした。
 鼠が出たのかしらと思った。囓られてしまう、大事な裕 美の化身が、と、どうしても鼠を部屋から追い出さねばと 思い立った。タオルケットを剥いだ。躰はとても怠かった。 一度起きたと思ったが、まだ躰は横たわっていた。次に本 当に立ち上がり、本棚まで二歩で辿り着いた、六畳しかな い部屋のこと故。
 兎ちゃんはまだ踊っていた。それを手にし、本棚を隈無 く調べたが、鼠はいない。何かの錯覚かしらと思い、兎ち ゃんを抱いて寝ようと思い、ベッドを振り返った。 すると、ベッドは柩に変貌していた。そんな馬鹿なとワ タシは瞬いて、兎ちゃんを落っことしてしまった。近づき、 柩の蓋を開けると、ネグリジェ姿の玲維が死体となって、 仰向けに寝ていた。蒼い顔がパイロットランプの光に映え ていた。頬に手をそっと触れると冷たかった。
 「自分が死んでいる! いや違うわ、ワタシは生き返ったんだわ、だってワタシは こうして生きているもの。」
 と、腰辺りまでの夜着とドロワーズ姿の自分に視線を移 して、ワタシは小さく叫ぶように口走った。
 再び瞬くと光景が変わった。今夜の夕食は、家族とのお 別れの宴だった。ワタシは独り、ミュステリオーン(秘儀) を執り行っていた。家族のどのような慰めも、励ましの言 葉も聞こえなかった。ワタシは一人、恍惚としていた。独 り黙して口を開かなかった。玲維の墓石を日時計に建てて、  「永遠ともう一日を」と祈っていた。


  アウフ ヴィーダーゼーエン レイ。  (さようなら、レイ。)


 光景が戻った。哀感にむせびつつ、ワタシは自らの過去 に別れを告げるべく、躯(むくろ)と化した自身の片割れ に目礼し、胸に十字を切った。
 「自分の死体に自分で触らないで!」
 何者かの声がそうユリカの心を打った。自身を葬らなけ ればならないとは、何ともの悲しいことかと涙ぐんだ。
 溢れ出る涙を拭うと、夢現になった。ワタシはベッドの 脇に立っていた。ベッドには、静かな寝息をたててユリカ が眠っている。胸に耳を当てた。聞こえてくる、明日の歌 声が。
 「本当に生きている、ユリカが!」
 ワタシはそう叫び、歓喜のうちに瞳を開いた。ワタシは ベッドに横たわっていた。いつの間に拾い上げたのか、兎 ちゃんをしっかり抱いて。
 この一夜の出来事が、幻覚だったか現実だったか、ユリ カには断じかねるが、いや、どちらとも片づけたくないよ うな気がするのだが、永遠に記憶されることだろう、暗示 的な事実のように思えた。あまりに直截な心の裡の映画化 だった。
 ベッドに入る前に、兎ちゃんを確かに本棚に置いたこと を撮ってあったら、この夜のミステリーは間違いなく幻現 夢になるに違いない。時として人間は、この種の霊感じみ た天啓を受けることがあるが、ユリカにとっては、それ程 珍しいことではない。今朝もまだそういう状態が続くので ある。
 こういう現象は、告白録に遺す以外にない。とい うのも、他人に話しても、どうにもならないからだ。「ああ そうですか、大変ですね。」である。気違いだと思われそ うだ。それでユリカは変身の朝の記念として、新しいノー トブックに書き遺した、まだ続く幻覚的出来事も。
 レイとして過ごしてきた日々の暗黒の憶い出(ムネーメ)を、か くも劇的に葬ろうとした白日夢を見たのは初めてだった。
 ユリカはバスルームに行き、洗面台の鏡を見やった。そ して昨夜の玲維の死に顔を見つめて、一句詠んだ。
 「永遠の前で無と化された瞑(ねむり)よ、おお、純粋 なる矛盾よ。」
 すると、玲維が十字架に磔になっている姿が目に映った。 そして硬直した玲維の相貌が、みるみるユリカに変わって ゆき、眼差しが、見ているユリカ本人に微笑んだ。
 「ワタシは、性のスタウロス(十字架)かしら、永遠に?」
 ユリカは複雑な想いになって、しばし自分をみつめる仮 面の心持ちを読もうとしていた。その眼差しに見つめられ つつ呟いた。


  「モン カール スクレ   (ワタシの秘密の心)
   ル ヴィザージュ コンクレ   (その凝固した顔)
   スュール ラ クロワ   (十字架上で)
   モン コール フロワ   (ワタシの冷たい躯)」



   ヴァッシェン ズィー ズィッヒ ダス ゲズィヒトゥ   (顔を洗いなさい)。」


 鏡像がユリカを促した。彼女はぬるま湯でこわごわと外 貌に触れた。皮膚はとても柔らかかったので、安心して石 鹸を使って数度タオルで洗い、顔を上げると、ユリカが微 笑んでいた。その目が水気を帯びて深く遠くを見ていた。
 「ワタシの目だわ。」
 ユリカは一心地ついた。やっと目が醒めた思いがして彼 女は歯を磨いた。口の中がスーッとして気分が良くなり、 ハーッと鏡面に息を吹きかけ、顔の石鹸分を洗い流し、夢 幻を剥ぎ取るかのように、タオルで仮面を拭った。瑞々し い笑顔に「お早う、初めまして」と挨拶した。
 「その顔を忘れないで!」
 鏡像が語りかけた。
 「この顔をですって? 恰も別の外貌を忘れろとでも言 うかのような言いぐさね。」
 ユリカが言い返した。素顔仮 面は頷かなかった。皮肉ぽかったかしらと、彼女は反省気 味に考えた。
 「純真さの故郷に帰りなさい。」
 言霊が諭すように響いた。そうなりたいと思い、ワタシ は鏡像に頭を下げ、一礼した。その間、鏡像は身じろぎ一 つしなかった。ワタシは自室に戻り、椅子に腰を降ろした。 目覚めの儀式にしては上出来だと思った。
 果たして、今朝の一連の出来事は、純粋知覚(アイステ シス)だろうか、今日から名実共に女になるというのは、 妄想(ヴァーン)の続きではないだろうかと、ふと、不安 な想いに取り憑かれた。


 ワタシは長いこと、ユリカになる今日この日を夢見てき た。今、その夢から醒め、同時に新しい夢に融け入るのだ。 こうしてユリカになっている。しかしまだ、その喜びから くる自己陶酔は無い。不安の方が強い。
 思い切り陶酔したい。その時、「ワタシ」という、脱自 的・反省的意識が主語を生み出した、第三者の立場でない、 本当のありのままの自己として振る舞えることだろう。少 なくとも、そう意志しなければならないだろう、初めのう ちは。 女になる現実の第一弾が発車を待っている。今日、 伯父のもとに養女として引き取られることになっている。 女らしい娘になるべく、中途半端だった性を清算すべく、 スタンバイしている。
 過去を、新しい視覚のもと、捉え返さなくてはならない。 これは自己欺瞞ではない、現実の現象だ。この苦汁に満ち た過去を、柔らかく見返せる日がくる事を願っている。ユ リカは立ち上がると、身繕いを始めた。昨夜、シェリーを 飲み過ぎたせいで、脱水症状をきたしているらしく、朝シ ョンを催さなかった。家族揃って朝食の席に着いた。ユリ カは一言も喋らなかった。野菜ジュースを三杯飲んで自室 に引き返した。
 十時に伯父が、ユリカを迎えにくる事になっている。そ の間にユリカはちょっと考え事をしていた。伯父とどう初 めのうち接したらいいものかと。娘になるのだから、少し 甘えん坊の、それでいて芯はしっかりしている娘として振 る舞おうぐらいしか思いつかなかった。
 ちょっとセクシーになろうかしらと思った、花盛りの娘 になるのだから。それで、ライトブルーのレーヨンのミニ のフレアーのワンピースの下に、フリルの裾のキャミソー ルからはみ出る、コルセットに繋がっている白いズロース を穿いて、コルセットをギューッと締め上げ、ウェストを 五十三センチと細くした。
 伯父の到着にはまだ時間がある。心静かに待とうと思っ た。レイとして過ごしてきたワタシの過去を知っている人 物だ。その伯父と、ユリカの両親と一緒に、医師のカルテ を基に、昨日性別変更の手続きをした。それまでに数年、 そのことで、医師や弁護士、役所や家裁の判事らと、定期 的にその変更に到るまで準備を進めてきていた。
 立ち合った係官のユリカを見やる眼差しは、半ば微笑み つつ、哀れだとも見えるものだった。伯父の若宮要三も同 席し、戸籍の移動も合わせて済ませてある。
 「変身しなくてはならぬ身の苦悩が解って?」
 ワタシはそう鏡像に問いかけた。
「悲しい現実、儚い過去、そして過去を切り離すことは 出来ない。」
 いつも聞こえてくる方位から、不思議の国の音声が響い てきた。
「ワタシの心の古里かしら、アナタは?」
  −−−虚しい夢、心許ない言辞、オマエの幻覚にして守護神。 何を言っても救われぬ現実、しかし諦めてはならぬ、死ぬ までは。私はオマエの過去にして未来、だが現在は知らぬ。 虚無にして神、オマエの法則−−−
 いつの間にワタシの分身は、こういう言葉を身に着けた のかしら? と不審の念を抱いてユリカは聞いていた。姿 見に見入った。しかし落ち着けなかった。自分の姿がしっ くりしない。衣服のせいではない。衣服は、自分を充溢し た女に定位させている。なのに、自分の姿をじっくり見れ ない。像が、他の女のような気がする。鏡像は、自分の自 画像ではないかの観がある。
 「どうしてそんな顔するの?」
 ユリカは鏡像に尋ねるかのように、自分の心に問いかけ た。「解る分けが無いわ」と、独り悩ましげに呟いた。
 ワタシの素顔を描出出来ないとはどういうことかしら? と、独り煩悶し始めた。ワタシの眼差しに映る自己は何者 だろうか? 今や、つい先日までそうだった、脱自的・反 省的意識から生じる、第三者的自我ですらなくなりつつあ るような気がする。全面的自我の喪失かしら。ユリカは、 自我を喪失した表情を、鏡面にそっと描いた。
 「創りかけの顔を完成しなさい。」
 と、その時鏡像が囁いた。ユリカは念入りにお化粧を施 した。幾分春めいたメイクになったような気がした。しか し、自分が何者になったのか、謎は深まる一方だった。鏡 面は、自分を狂気へと誘うような気がして、カノジョは目 を反らした。そして考えた。
 「ワタシ」意識を構成していた一対の、カタコトのカレ やカノジョはいなくなる。ワタシの両性具有を表出する 内実が消えた。カタコトの「ワタシ」は明らかに存在しな くなる筈だ。昔、そんなワタシを形造らねば生きてゆけな かったところの、自我が消失するのは間近だ。十二年もの 間慣れ親しんだ主体が、肉体から失せていくことを望んで いる。
 自分の眼差しに映る現在は、不安に戦いている。その不 安の内実さへ解らないという、根元的不安だ。不安を抱い ている間、人間はその実態を分析出来ないでいるからかし らと、ユリカは思った。ならば、不安から逃れる時、その 実態は解明されるかしら。
 ワタシは何に怯えているのか? 自分の影(シェーメン) にだ。直視出来ない自身の不安に揺れる幻覚的影にだ。 自身に見えない自己が影を生むとは、幻覚と同じ類のもの ではないのか? 自分生来の自我が、まだ完全には蘇って いない。思春期以前の自我とはかくも弱いものかしら?  三つ児の魂百までもというけれど、それは懐かしさの域を 出るものではない、今までのワタシにとっては。
 しかし、確かなる懐かしさではある。確かに樹立されて いる自我の欠片であることは、かすかに生き延びた五感に 織り込まれている。それはユリカの唯一のスプレッシア トゥーラ(優雅さ)の原形質だ。追憶にはそれ故、宝石の 発掘にも等しい価値がある。
 今、自分の形姿を見れない己が眼差しは、一時的な錯乱 だろうか。いや、惑乱の誘いに狂う神経の過度の緊張だ。 意志と惑乱の拮抗する穂先に、変身する現身(うつしみ) が花咲く。その土壌としてのワタシの過去。
 今、恰も別の貌(かお)があるかのごとく現れ出た自分 の鏡像に、心は憩っていないが、今までの顔が他人だった とも断定出来ない。ワタシの性は、ワタシ自身解釈できな い何かだった。
 いつか、光の神(アポローン)が、ワタシに視力を与え てくれることを祈っている。いや、既に、命の女神の息吹 により、塑像に生気が宿り、模造でしかなかった感官の触 肢が活動を始めたばかりではないかしら。 ワタシは瞳を開いた。世界が何と美しく見えることかと 言っていい時ではないかしら。幻想と意識の間に揺れ動く、 男と女の鏡像に開花する、性の模像としての身体から、解 放されて然るべきではないかしら。
 昨夜、薄衣の裾を翻して、玲維は異界へと流転したが、 異界と現世の間(あわい)で和むのが、両性々を育んでき た、ユリカの身体だった。しかし、それ故にいつも、ユリ カは、女としても男としても、他人の性的眼差しによって 輪姦されているように思えてならなかった。それは、自身 の意識が他者に投影するコムプレックス、常に性的異常者 と見なされているように感じる意識だった。
 他人の眼差しが、棘のように自分に集中してくるのに耐 えられなかった。そういう毬のむしろ編まれた性座に座ら されていた。今、その痛い台座から抜け出す時だ。吹き寄 せる春のプネウマ(息吹)、幼かりし日のトラウマ(外傷)、 夢多かりし駿馬よ。





N E X T
・アンドロギュヌスの肖像 U・ ∴目次
 1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴
 4章 ∴





井野博美『短編小説集』TOP
∴PageTop∴

produced by yuniyuni