両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第三章  仮面の面影   -2-  早田の告白


 「こんなクラス会は二度と御免だ。」
 早田は、閑静な薄暗いラウンジに入ると呟いた。
 「結婚なんてするんじゃなかった。男が何だ、女が何だ、 唯の生き物さ。男が女になったり、女が男になったりする のが、何がおかしいっていうんだ、馬鹿臭い。よくわかっ たよ、下らないってことが。」
 ユリカは思わず笑ってしまった。
 「あの女は、表面的には男ぶっていたけど、内心は単純 な女だった。僕を女にしたいだけだった。僕を女装させて 紐で縛って鞭で打つのがあの女の趣味だった、いや、生き る糧だった。
 アタシの悲鳴に狂気するサディストだった。しまいの頃 は、僕を去勢させようとさえした。早く切ッチンしろと毎 日要求した。自分で実行しろと迫った。僕はお断りだとは ねつけた、その都度。
 そううればするほど、あの女は僕を責め苛んだ、自分の 言う通りにさせようと。女性ホルモンさえ飲ませた。その せいで、アタシは女性的発情の冴えたヒステリックな叫び をあげた、鞭やエレキショッカーで責められる度に。そし て僕の乳房は膨らんでしまった、君ほどじゃないけど、小 山をなしている。
 そのくせあの女は子供を欲しがった、子孫を遺すという 人間の本能だけは捨て切れなかった。娘は今四歳。その子 の前で、自分は黒の皮ジャンに黒のスラックスと男装して、 旦那をスリップとパンティーという姿にさせて、鞭で打ち 据えて悦に入っていた。
 でもアタシは生まれついてのマゾヒスト、彼女のサディ ズムを惹き付けようとしていたわ。彼女はサディズム一方、 アタシはマゾヒズム一方だったわ。
 あの女はアタシの躰の下で微動だにしなかった、冷感症 だった。性的には何の反応も示さなかった。唯、アタシを いろんな道具で責め苛んだ代償として、躰を抱かせようと いう魂胆だった。そうしないと性的関係が成り立たないと いうことを、あの女は本能的に感じていた。
 子供が一人出来たら、早速アタシに切ッチンを要求した。 狡い女だった。いつか復讐してやりたい気分でいっぱいだ。 いくらマゾヒストでも我慢出来ないことがある。あんな女 に三百万も払ったのが癪でしようがない。もっとも親に立 て替えて貰ったんだけど。
 別れた時はこれでスッキリすると思った、安らかな気分 だった。これで、自分にもよく分からない、躰を傷めるだ けの生活から抜け出せると。しかし、今になってみると、 どうしても許せない部分がある。
 あの女は、自分がご主人様でいるだけでは気が済まなか った。アタシを主婦にするだけでは満足出来なかった。ア タシを雑巾のように引き裂かなければ気が済まなかった。 その上、アタシをいたぶるサディスティック・レギーナ様 であり続けなければ気が収まらなかった。アタシはそんな 彼女の女中のように振る舞い、揚げ句の果てに痣だらけに されてしまった。
 それでも一年ぐらい前まではまだ良かった。アタシは女 のペルソナを着けた男、彼女は男のマスクを被った女で、 お互い、自分の性変異を投影し合っていられた。性倒錯と いうのは、いい相棒が見つかると露出狂になるんだ。他人 には隠しているけども。他人に隠していることを殊更披露 するようになるんだ。
 正に毎日が披露宴みたいだった。それに陶酔していられ た、アルコールを飲むよりか酔いが深かった。眩暈を愛す るかのように、彼女の攻撃に耐え、彼女の変哲な愛の表現 に悦んでいられた、毎晩ファッションショーだった。その 頃は夢のような日々だった。マゾヒスティックロマンスだ った。正にロマネスクだった。そんなロマンスが開花した 頃、アタシは本当に幸せを掴んだと信じた。
 ところが今年の夏から急に、彼女が変わってしまった。 その原因は、娘がアタシの真似をするようになったからだ。 アタシに似て、マゾヒストにみるみる変身したからなんだ。 アタシが鞭で打たれて悲鳴をあげると、その図を真似て、 悲鳴をあげて失禁し、身を捩るようになった。
 それが、彼女がアタシを憎み始めたきっかけだった。自 分の娘が、父親に似てマゾヒストになったのが憎かったん だ。自分と同じミストレスに育て上げたかったんだ。
 そしてどうやら、サディストは、マゾヒスト相手では充 足した快感が得られないということが分かってきた。その 逆も言える。彼女の冷たい仕打ちからそう察せられた。サ ディストの快感は、マゾヒストを相手にするよりか、普通 の人物を獲物にする方が度合いが深いらしいんだ。そうい うパートナーをどこかで見つけたらしいんだ。
 その上、娘が同じマンションの友達の家に遊びに行って、 そこの内の男の子をサディスト役に仕立て、紐で縛って貰 い、鞭で打って貰い、悲鳴をあげて喜ぶようになり、更に、 内のパパとママがこうしているのと、喋りだしたから堪ら ない。
 娘の様子から見て、内の中はどうなっているんだろうと、 近所の人達が不審がりだした。アタシ達は急速に居ずらく なっていった。あの夫婦、揃って性倒錯だわ、二人して異 性の服装して暮らしているわと、噂になってしまった。ア タシ達夫婦の性癖が、娘の口から楽しげに伝わってしまっ た。四歳の子供の口に戸は立てられない、面白おかしく喋 り散らされてしまった。
 すると途端に、全ての責任をアタシに押しつけて、去勢 しろと要求を強くし出した。そうでないと離婚すると言い 出した。子供が出来てからは、男などというものは、癌の ようなものだ、格好悪いばかりだ、早く躰も女になってし まえと言い出した。恐怖のサディスト女にグレードアップ した。
 本気で自分の雑巾にしなくては心が落ち着かなくなった。 初めは単なるこけ威しだったけど、言う度に本気の威嚇に なっていった。
 一緒に寝るのさえ怖ろしくなってしまった。いつ切ッチ ンされるかも知れないと思うと、うかうか眠れなかった。 するとあの女は、これ見よがしにマヌカンを買ってきて、 それに服を着せて抱いたり、鞭打ったりするようになった。
 そして娘が、父親に心情が傾いたと知るや、連れて実家 に帰ってしまった。今頃、鞭の振り方を教えているに違い ない。それが許せないんだ。ああいう女に育ててはいけな いんだ。
 裁判所では、まるで別人のごとくに振る舞った。マゾヒ ストのアタシに無理にもと頼まれて、そうっと鞭を振るっ ただとか、男装させられたとか、アタシのワンピースをミ シンで縫わされたとか、アタシが娘をマゾヒストになるよ う訓練したとか、全部アタシの責任にしてしまい、子供を まともに教育するには、正常なる自分が面倒みなくてはな らないなどと、臆面もなく述べ連ねやがった。
 アタシも必至に彼女のサディスト振りを力説したわ。彼 女の離婚への動機は、アタシに去勢しろと毎晩要求したけ ど、それが実現しなかったためだと、何度も言ったけど、 そんなこと飛んでもないことだと、しゃあしゃあとぬかし やがった。
 アタシに他に女が出来たなんて言って、離婚の原因者に されてしまった。あの女、どこかに男を飼っている。それ さえ判れば裁判で優位になった筈なんだけど、はっきり突 き止められなかった。力及ばず子供を取られてしまった。」
 「アナタ、本当の女は化け物よ、まともに裁判所で言い 争ったって、子供は男親に渡してくれないわ、四歳じゃあ 尚更よ。裁判所ではその人、サディスティックじゃなかっ たの?」
 「アタシと一緒にいる時はサディスティックだった。だ けど、今ある姿は、全て、アタシに骨の髄までサディスト にされた結果だ、これからは元の普通の女に戻るよう努力 するだなんてぬかしやがった。
 今までは、何とかしてこの人を一人前の普通の男にして やろうと努力してきたけど、アタシに改悛の情が見られな い、益々ひどくなる一方だ、もうどうすることも出来ない、 あたしの躰が耐えられない、扱い切れなくなった、気が狂 いそうだ、などと逆様なことを平気で口にする始末。それ が、彼女だけで面接を受けている時は、淑女ぶっていたら しいんだ。淑女ぶるのも女にとってはサディズムのうちの ようだ。」
 「裁判所で、アナタの態度はどうだったの?」
 「普通の男で通そうと思ったんだけど、写真やビデオの せいで、普通の男でないと決めてかかられちゃったんだ。 男は簡単には化け物にはなれないんだ。」
 ユリカは思わずガクッと肩を落とした。勝ち目は初めっ からなかったのかと思うと、彼の心根が可哀想だった。何 と哀れな、何と滑稽な男だろうかと思えた。狂気と馬鹿の シンフォニーだわと思った。
 「もう忘れなさい、その女のことは、子供には時々会っ てあげなさい。」
 「子供に会いたいんだ、引き取りたい、けれど大学院生 のアタシには面倒見きれないんだ、やっと乳離れしたばか りの子を預かるわけにはいかないんだ。
 そもそも、あんな若さで結婚なんてすべきじゃなかった。 それを無理に、自分の家は資産家だから、お金で不自由さ せないからって迫られて、ついフラフラとその気になって しまったんだ。
 それがそもそもの誤りだった。コムプレックスの誘惑に 負けてしまったんだ、女装趣味の虜になるという、コムプ レックスを満たせる相手だったから。思いもよらぬ奇蹟の ような気がした、あの頃は。自分の倒錯を思うまま存分発 揮出来るなんて、夢を見ている気分だった。毎日が陶酔だ った。あの女もそうだった。それがアッという間に離婚に なってしまった。
 しかし、あの娘だけは何とか自分で育てたい、あの子は アタシの血を継いでいる、あの女の魔の手から奪い返した い。
 今のままでは無理なことははっきりしているなと思いつ つ、早田の目を見たユリカは、はたと感じた。早田はユリ カに、自分の娘の母親役を頼みたいらしいと、その時初め て気がついた。
 早田の後妻になるなんて、今まで考えたこともなかった。 しかしユリカは、早田の胸を借りて、踏み台にしてここま で生きてこれた、カレのお陰で女として生長出来たことは、 自分が一番よく知っている。そのオトコが今助けを求めて いるのだ。何とかしてあげたいと思った。
 今までは、大学を卒業するまで、付き合ってはきたが、 それは自身が女であることを確認するためだった。正常な 性の持ち主であるカレと結婚するなんて、考えてもみなか った。カレに、正常な女と結婚すると打ち明けられた時は、 心からの祝福を送ったほどだ。
 そのカレが今や、こうして結婚生活に破綻を来している。 そのような結婚相手を見つけさせた原因の一端を自分が握 っているのだと思うと、哀れでならない。罪跡感を覚える。 マゾヒズムにも陥り、内気で、自分の方からは助けてくれ とは言えない。昔からそうだった。
 「助けてあげましょうか、アナタの娘さんを奪い返すの。」
 唐突にユリカの口が勝手に言葉を発射した。
 「ええっ、本当?!」
 早田は目を輝かせてユリカの顔を覗き込んだ。
 「その子、アナタに懐いているんでしょう?」
 「うん、とってもよく懐いていた、母親以上に。」
 「じゃあ、早い方がいいわ、アナタの顔を忘れないうち にね、まだ四つなんでしょう、すぐに忘れちゃう年頃よ。」
 早田もそれを心配しているらしく、こくりと頷いた。
 「だったら急いで、住む所はあたしのパパの家がいいわ、 知られていないんだし。内には空き部屋がいくつかあるん だから。
 「でもボクの籍に入れるには裁判所の許可が必要なんだ、 今となっては。」
 「それは娘さんを引き取ってから手だてを考えましょう。 まずその子に、アナタと暮らす決心をさせることよ、それ まであたしの家に匿ってあげるわ。」
 「よし、やってみるか、一か八か。」
 「でも、あたしに懐くかしら?」
 「ボクが一緒なら大丈夫だろう。」
 「でも初めのうちはなるべく、一日中、そばにいてあげ なくちゃあ、収まらないわよ、暫くの間は。大学院は、今 年度は休学しなくてはならないかも知れないわよ。あたし に慣れるまでの間だはね。
 「うん、そうだね、そこまで助けてくれると、ボクとし ても生きる張り合いが出てくる、有り難う。」
 「彼女の実家はどこ?」
 「世田谷だよ。」
 「都内か、なら近いわね。昼間、外に遊びに出てくると ころを呼び止めれば済むわ、あたしの車で行きましょう。 アナタに懐いているのなら簡単よ、秋雨の合間に実行しま しょう。」
 「よし、明後日、大学院に休学届けを出すよ。ボクはも う、大学の助手になることに決まっているんだ、順調に行 けば来年の春から。それが一年遅れるぐらい大したことな いよ、一年浪人したと思えばいいんだ、その間にじっくり 研究出来るし、丁度いいさ。」
 「そうお、決心がついた?」
 「うん、いい気分だ、君のお陰だよ。」
 二人はラウンジを出て別れた。早田は心も浮き浮きと去 って行った。しかしユリカは、これから大変な日々になり そうだと直感し、躊躇いがちに我が家へと足を向けた。


 パパに早田のことを打ち明け、これまでの経緯を事細か に説明し、自分が女になれたのはカレのお陰なのだという 点を強調し、我が家に当分、早田を匿い、同居する許可を 請うのに二日かかった。
 そこまで言うのならいいだろうと、パパはO K してく れた。それを早速早田に伝え、若宮家に早田は引っ越すこ とになった。まずカレがパパに挨拶に来て、お礼を述べ、 次の日に荷物をトラックに積んでやって来た。
 離れの部屋をカレのために使わせて貰うことになった。 その部屋は一階の西の端にあり、数年前まで、パパの母が いた部屋だ。
 パパとユリカと早田の三人で、顔合わせのパーティーを 開いた。
 「君の専門は何ですか?」
 と、パパが早田に訊いた。
 「日本文学の謡曲が専門です。ユリカさんと幼い頃から 親しんできた分野です。」
 「ほう、謡曲とはいい。観阿弥とか世阿弥は私も大好き でな、面もたくさん持っている、本物のをな。結構高いが、 値段を知っているかい、小面なんて?」
 「はあ、五六十万するんじゃないですか。」
 「うん、そのぐらいだ。能の仮面ほど、仮面としての完 成度の高い物は世界中にも他にないと思っておる。時には 能楽堂に行くのかい?」
 「一年に四回ぐらいしか。」
 「学生の身分ではそのぐらいだろうな。」
 早田は唯頷いた。その挙措の慎ましさにパパは好感を持 ったようだった。
 かくして早田は、若宮家の居候になることが出来るよう になった。その夜二人は、地図を見て、車を走らせるルー トを検討した。多摩川田園調布だから、下赤塚からひとっ 走りだ。





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 4章 ∴





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