両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第三章  仮面の面影   -5-  三角の始まり


 いつの間にか春分の日も過ぎ、早田は四月から大学の授 業に戻ることになった。そんな三月の下旬、西片からユリ カに電話がかかってきて、四月からT大の講師として務め ることになったと連絡を受けた。既に東京に戻ってきてい るので、是非お会いしたいと。ユリカは、それでは内でパ ーティーを開こうと思い、西片を招待した。
 午後6時に西片は、オールド・パーを土産にやってきた。 彼は、去年の早田とユリカと、向手幸子らとの事件を知っ ていた。しかし、早田が生成のニットのワンピースを着て いるのには驚いたようだった。
 「サロマ湖畔にいた時、貴方高血圧だったんじゃないこ と?」
 「さすが女性、細かいところまでよく気がつきますね。 三日前に健康診断を受けたんですが、上が百八十もあって、 医師もびっくりで、薬を飲まされているんですよ。」
 「そんなに緊張していたの?」
 「ええ、絶望と不安と不満で、ストレスが溜まっていた ようです。」
 大男の絶望とはどんな内容かしらと、ふとユリカは想像 して微笑んだ。
 「貴方、意外と繊細なのね、神経は、躰に似合わず。」
 「全く意外でした、この躰で、あんなに心細くなっちゃ うなんて。五年ぐらい覚悟していたんですが。」
 「貴方、ウェストサイズは?」
 「八十六センチですよ。」
 「そんなに太いの、あたしより三十センチ以上太いわ、 そんなお腹にストレスが溜まるとなると、その許容量は普 通の人の三倍はあってもいい筈なのに、不思議ね。」
 「僕のお腹はブラックホールじゃないもので、何でも吸 収消化出来るってわけにはいかないんですよ。」
 「ストレスはお腹にではなく、心に溜まるものですよ。」
 と、早田が口を挟んだ。手で、西片の胸にハート型を描 きながら。西片は笑った。
 「そうそうユリカさん、あの本、もうじき出るんですよ、 マンピー堂書房から。ユリカさんが手配して下さって、今 年の初めにその出版社から連絡があり、ファックスでやり 取りして、出版に漕ぎ着けました。もう、見本刷りが出ま してね、二冊持ってきましたからどうぞ。」
 そう言うと彼は、鞄から四六判の大きさの本を取りだし た。
 「ワタシも仮面には興味があるんですよ、特に能楽の面 には。」
 早田はそう言って、手渡された本をパラパラとめくって、 小面の写真の載っているページに目を止めた。そして少し 声を出して読んだ。
 「シテは、謡いに合わせながら動作しつつ、過去の姿を 現在に映し出し、幻想と現実の間(あわい)で、男と女の 合体にたゆたう一時を、見る者に味合わせる不思議な媒体 である仮面の効能を十二分に発揮する。。。」
 「みんなユリカさんの訳です。」
 フムフムと、早田は顎をさすって読み続けていた。
 「早田君にもいい参考になるんじゃないですか? この 本。」
 「そう、大枠的な範疇で、面というものの機能を探るに はいい本ですね。タイトルの通り、『仮面の現象学』です ね。こういう内容の本の出現が待たれていたって気がしま すね。」
 「はあ、やはりね。教授に褒められましたよ、いい本に 目をつけたって。でも里中教授の口添えで出版出来たそう です。基本的にユリカさんが訳して下さった上、教授にお 願いして出版社まで持ち込んで下さり、本当、敬服のいた りですよ。」
 「それはね、アタシも訳すのお手伝いしたもんだから、 本になるのは嬉しいので、伯父にねだったのよ。それが適 って嬉しいわ。『マンピー』というのはね、その出版社が 出来る時、伯父が名付け親になって、社長さんが肥え太っ ていたので、『肥満』を思いつき、その字の前後を入れ替 えて、マンピーっていう名前にしたんですって。」
 みんな笑ってしまった。
 「たったの一年で東京に戻れたのも、教授の肝いりだそ うです。ユリカさんのお陰ですよ。」
 西片が改めてユリカに一礼した。
 皆でウィスキーを飲んでいるうちにお寿司が届き、今子 ちゃんを抱いていたパパも加わって、和やかに過ごした。
 「西片さん、あの後何か翻訳したの?」
 「それが全然なんですよ、今年の3月まで、このままの 状態に置かれるのかと思うとそれだけで息苦しく、研究所 がすっぽり雪に埋まってしまうし、外界と縁切れになって しまって、絶望するばかしで、とても耐え難く、本を訳そ うという気力も無くなってしまって、はあ。」
 西片はそう言うと少し青ざめて頭をかいた。ユリカは、こ の人よく青ざめる青年だわと、笑った。
 「外国語覚えられるの、三十までだって、伯父が言って たわ。今のうちに励むことね。ギリシャ・ラテンは言うに 及ばず、ゲルマン祖語なんかもね。サロマ湖畔で貴方、そ ういうの勉強すれば良かったのに、今から思えば。留学す るような気持ちでね。」
 「いやあ、全く、今から思えばですねえ。」
 と西片が頭をかいたので、みんな笑ってしまった。
 「ところで、サロマ湖畔の研究所に次に回される人、ど んな人?」
 「粛正派の馬鹿ですよ。内藤とかいう名前の、革命の考 古学を専門にしている奴ですよ、可哀想に。内的葛藤の塊 になるに違いないって、みんな言ってますよ。」
 又、みんな笑った。
 「早田君、若く見えるでしょう、バリバリのオカマだも の。」
 「君、ワンピース姿で大学院に出かけるの?」
 「そりゃあ勿論。」
 「うーん、いい度胸しているね。T大の教授にもいます よ、女流文学の専門家だけど、普段女装していると、女性 の感覚とか考え方が解るような気がするなんて言っていま すよ。」
 「いやいや、西片君、実際に女装して教壇に立つという のは、度胸だけが原動力ではないよ、そういう性癖がある からだよ。」
 初めてパパが口を出した。
 「やはりそうですか、あの人、平安朝の女流文学が領分 で、いつも和服で女装しているけど、男か女か判らないっ て格好ですよ。
 その点早田君はワンピース姿で、どう見ても女というス タイルなのが、現代的でいいや。明るいのが何よりですよ。 それにしても随分良く似合いますね。自分に似合うよう装 うのは結構なことですよ。」
 早田はお世辞を言われて口元をもごもごさせて、はにか んでいたが、
 「こうなるには今までとても苦労しているんですよ。」
 と打ち明けた。
 「思ったことは実行に移すという、ユリカさんにはピッ タリかも知れませんね。」
 そう言いながら西片は、自分の存在をユリカの心の裡に 印象づける方法はないものかと、いろいろ考えつつ、ユリ カの言動を窺っていた。
 「ところで西片さん、まだ結婚しないの?」
 「それがね、考古学科にもいい女の子はいるんだけど、 僕は赤信号の第一人者にされていて、付き合ってくれない んですよ。民暴の手が回っている、そこまで邪魔する、彼 奴ら。」
 西方は歯噛みしながら吐き出すように言った。
 「やっぱ悪夢の古里か、N同は。でも暫くの我慢よ。当 然の憂き目に遭う過去の持ち主なんだもの。まあ、変身振 りを強調することね。プロソーポン(仮面)を新しくする ことを急がなくっちゃね。」
 「それがね、ユリカさん、奴らが振れ回すには、仮面の 専門家の仮面を剥いだら、暴力団の組員だったって言うん ですよ。」
 みんな大笑いしてしまった。
 「もう二度と暴力は振るわないことね。そして、自由・ 平等・博愛をスローガンにした論文をどんどん書くことね、 それはフランスでも受けるんじゃないこと、留学する際に プラスポイントになるわよ。」
 励ますようにユリカが言った。
 「それはいいアイデアですね。でも奴ら、僕にサロマ湖 畔で殴られたって、触れ回っているんですよ。」
 「悪魔を懲らしめただけだと開き直ればいいのよ、『悪魔 は転んだ』って、言い返してやればいいんじゃなくて。」 又、みんな大笑いした。
 「ユリカさんみたいに面白いこと考えつく人、初めてお 目にかかりましたよ。」
 「西片さんの形相に怖れをなして、我先に逃げようとし て焦って、仲間とぶつかって転んだんだってことにすれば 済むことよ。」
 「そうですか、その証人になって下されば、僕としては それに過ぎる恩はありませんね。」
 みんな笑って、それは名案だと頷いた。
 「何か僕、お世話になりっぱなしですね。でも、彼らと は妥協出来ませんからね。そうおっしゃって戴くと勇気が 沸いてきます、本当に有り難うございます。」
 みんな頷いた。
 「自分の過去の行動に対する自己批判も必要よ。そして 彼らとの差異を鮮明に打ち出しなさいよ。
 過去というものを、考古学者らしい捉え方で提示しつつ、 自分の過去を捉え返し、反省する契機が何であったか、そ してそれから演繹される自身の研究目標と、行動方針を、 早速発表するのよ。そうすれば、ゴロ民共ももう近寄れな いわ。
 彼らと対話するなんて姿勢は絶対見せては駄目よ、つけ 込まれるだけだから。」
 「そうですね。悪魔の本性を覆い隠す仮面を被っている N同として、奴らを今度は論文でノックアウトしてやる。
自分の分野の研究に踏み込みつつ、それが肝心なんですよ。  万年助手には、専門領域の研究は出来ないんですから。 彼らが研究出来るのはただ一つ、嫌がらせの術を磨くこと なんです。それは自分本来の研究分野ではないんですが、 それしか出来ないんです。
 奴らは、仲間から抜けた人物に、研究の実績を上げさせ ないように画策しますが、僕は幸い、既にユリカさんの力 を借りて、翻訳書を発刊出来ましたから、奴らとそれだけ でも足場が違うんです。
 ユリカさんは僕にとって、まさに本当の白鳥です。本当 に助かりました。」
 「万年助手って、内心絶望とコムプレックスの塊なんじ ゃないですか?」
 早田が上目使いで西片に言った。
 「いやな、あの手の人間にとっては、かえってそれが団 結への心情の原動力に変じるものだよ。それ故に頑なに思 想に執着して、他のことから心身を遠ざけてしまうのだ。
 絶望すれば普通の人間なら、神仏を頼みにするところだ が、彼奴らはその神仏さえ認めようとしない。自分の心の 状態を正しく認識出来なくなってしまうのだよ。
 コムプレックスは、互いの傷を舐め合う格好のものなん だ、彼らにとっては。普通の人間から見ると、いびつな勲 章だな。そういう歪んだ心情で手を繋いでいる集団だ、正 に狂気だな。そいつらに正義感だの前衛意識だの叫ばれる のは真っ平だ。」
 さすが大人は見方が鋭く深いと、皆思って要三に頷いた。
 「コムプレックスを勲章だなんて思うのは、精神病患者 ですね。」
 早田に要三が「ふむ」と首を縦に振った。
 「奴らは、自分の心の裡を覗かれたら、顔を真っ赤にす るでしょう。これは間違いのないことですよ。それが勲章 になるなんて、野蛮人以下ですよ。未開人だって、恥ずか しくて小屋の中に籠もってしまうでしょう。
 マルクス主義なんて、もはや、そういう奴らの心を隠蔽 するマスクでさえなくなりましたよ。奴らにはもう、他人 に見せる面は無きも同然ですよ、時代の流れとは怖ろしい ものですね。
 主義主張にこだわっていると、時代に置き去りにされる ということかも知れませんね。」
 西片が、要三の意見に同意する発言をした。
 「コムプレックスの傷口を舐め合ったら、どんな精神状 態になるんでしょうね?」
 早田が意味深な目つきで要三と西片の顔を見て訊いた。 何しろ、早田自身、強烈なコムプレックスの持ち主だから、 是非知って考えたい事の一つだ。
 「それは、奴らは、手を繋いでいる限りは昇華出来ない 類の物ですよ。一人になって、自分の心を正直に見つめな ければ解放されないもので、解釈も出来ないものですよ。
 ユリカさんが言っていたように、独りで闘ったことのな い人間には、人間味のある温かい闘いは出来ないことを、 わたしは躰でもって理解出来ました。
 僕は幸か不幸か、一年間サロマ湖畔で独りで孤独になれ たので、自分の心の裡をじっくり見つめることが出来、は たと気付きましたよ、一方的にひねくれて、傷口を舐めて いる思考様式に。
 例えば、僕をサロマ湖畔に送り込んだのは、権力の不当 な行使である、自分は惨めである、その屈辱をバネにして、 共に闘おうではないか、オーッ! これが典型的なパター ンで、ここには惨めさと憎悪はあるけど、思想性とは関係 ない要素なんだ。
 コムプレックスや憎しみは、思想性とは違うということ を、嫌と言うほど思い知らされました。
 資本主義社会が自己矛盾のうちに爆発するのであれば、 資本主義者の敵は自分自身であり、共産主義者など、毛虫 同然に過ぎないのです。金持ちになる利口な資本家は、自 分の敵は自分でやっつけますよ。共産主義者なんて、敵の 内にも入らないというのが実状です。
 共産主義者は、極論すれば、資本主義社会の中で、自分 達の権力構造を形づくっているだけなんですよ。
 ソ連が何故滅んだかと言えば、あの国では実業家の台頭 を許さなかったからであり、いたとすればルシアン・マフ ィアぐらいのもので、それは体制にとっても人民にとって も、マイナス要素をもたらしただけですが、他に、社会の ためになる実業家の出現を阻止していたため、経済が活性 化しなかったということが、命取りになったんです。
 計画経済などというものは。資本主義より遅れた形態だ ということを、自ら証明しただけのことです。
 ちょっと話は逸れましたが、まあ、そういうことに気が 付いたんです。彼らと一緒にいたら、気が付かなかったと 思います。悪夢のワルツを踊っていたことでしょう。
 つまり、自分達だけにしか通用しない感覚とロジックを 飾り立てるだけなんですよ。ホモとかレズの人達もそうな んじゃないかな、早田君、解るところあるんじゃないです か?」
 西片は何か物珍しそうに早田を見やって訊いてみた。
 「ボクはホモじゃないけど、コムプレックスでいっぱい なんです、性的な。とてもデリケートに内向する意識で、 他人には打ち明けられないんです。ボクのような人間のこ とを『S H E M A L E』と呼びますが、徒党を組もうとい う気は毛頭ありません。
 でも何となく感じるんですが、このコムプレックス、何 とか昇華しないと、気が狂うんじゃないかって思えるんで す。コムプレックスの傷口は既に開いているんです。そこ から少しずつ自我を抽出していかないと、自我は内向した まま死んでしまうんじゃないかって思えるんです。
 でも傷口を舐め合うと、自己表出出来ないようにも思う んです。中途半端な状態に自分を宙吊りにして、本当の自 分を押し出すべきなのに、それを自ら放棄してしまう虚し さのみ感じるんじゃないかって気がするんです。
 自分の仮面を完成したいとボクは思っているんです。普 通の人は仮面を剥ぎたがるもののようですが。仮面を被っ ているからといって、内的世界が虚構だというわけではな いと、ボクは実感しているんです。その内的世界を象徴化 する外面を形造ろうと、ボクは独りであがいているのです。
 でもそれは、コムプレックスの意識を乗り越えないと実 行出来そうにないのです。やろうとする度に世間との違和 感にブチ当たります。一般性の尺度から見ると、ボクは非 常識極まりない人間のようですが、個人的意識では、理性 的過ぎるのではないかと思っています。美意識を追求する ことは、理性抜きには為し得ません。
 でもボクは、自分達の間だけで通用する美意識を磨くつ もりはありません。ですから、互いのコムプレックスの傷 口を舐め合うようなことはしたくないのです。堂々と世間 にこうして出現したいと思うわけです。
 女装するのはその第一歩です。でも、女役を演じるつも りはないのです。ここが普通のホモと違うところです。」
 皆はそうなのかと聞いていた。
 「そういうの『トランス ヴェスタイト』(衣裳転換)っ ていうんじゃないの。」
 「いえ、ボクの場合は、自分の躰を自分風に見せるには、 女性用衣服でしか為し得ないので、それを着てるという意 識なんです。そうすることにより、世間に現れる有り様に 納得出来るのです。」
 その意見にはあまり賛同が得られず、皆、どう言ったら いいか分からず、しばし無言で、話が変わる隙間になった。


 「ユリカさんは結婚しない主義ですか?」
 「当分はね、あたし、大学生の時に一人の青年を愛しま した。でもその人、二十一歳で肺結核で死にました。あた しはその人の想い出で胸がいっぱいなんです。その人の最 後の息を、あたしの唇が吸い取りました、デスキッスでし た。」
 「何て劇的な経験を!」
 と二人は同じことを言った。
 「是非、僕も婿の候補に一枚加えて下さい。」
 西片が頭を下げた。
 「あたしは、性的に普通でないという矜持を持っていま すので、暫くは一人者で暮らす所存です。」
 「勿体ない」
 と再び二人が同時に声をかけた。
 「ところでユリカさん、訳本作って戴いたお礼をしたい んです。どうですか、スピーカーシステムでも。お金のこ となら心配要らないんです。幸い僕の父は佐世保で造船所 の社長をしていまして、今不況ですが、裏金がうなってる んですから。」
 「そう、それは嬉しいわね、お言葉に甘えて、JBLの 名器、ウーファーに38センチのD130とスコーカーに L E 1 7 5 というホーンドライヴァーに、円形のでない、 羽状のレンズ、そしてトゥイーターに2404という、3 ウェイを収めてあるのを二本お願いしようかしら。秋葉原 のスピーカー屋さんに置いてあるわよ、箱入りで。試聴も できるのよ。
 これは、音の分解能が良くて、あまり刺激的でないのと、 あまり重くないという利点が大きいわ。音像のまとまりも いいし、箱の図体もさほど大きくないし、一般家庭向けよ。 音楽のいろいろなジャンルをうまく表現できるし、癖もな く、スケール観抜群なのが好きよ。
 その3ウェイを、マルチアンプドライヴするので、背面 のボックスには、SP毎に別個に端子だけ着けてくれるよ う頼んでね。明日、一緒にそのお店に行きましょうよ、良 かったら。駅前のラジオ会館にあるのよ。」
 「喜んで。」
 そこで今夜はお開きになった。今子ちゃんが爺ちゃんの 胸ですやすや眠り込んでしまったせいもある。西片は楽し そうに帰って行った。





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