アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱
第四章 奇蹟への道 -6- クリスタル イリュージョン
パパは、ユリカと早田の結婚にあまり乗り気でなかった
が、駄目だとは言わなかった。早田は入り婿になるのだ、
若宮家の。二人にとって心弾む思いのする数ヶ月だった。
新婚旅行は、春休みを利用して、ヨーロッパ二週間と、予
定も決まった。
そういう手続きを十二月中に済ませた。コンコルドに乗
れないのが残念だった。もっと前に予約しないと無理だ。
普通の旅行のツアーに加わった。寿ツアーほど評判の悪い
のはないので。
早田はマンションで惨めな暮らしをしていた間、孤独に
苛まれていた。子供と二人きりで生活しようと思っていた
ら、父と母が乗り込んできて、滅茶苦茶に引っ掻き回され
てしまった。
社会の中で孤化している自分の心身を痛切に感じた。大
学でも爪弾きされている。それでいて、社会と遮断した生
活などできないのだ。
現実から逃亡したいと思ったことは再々だった。しかし、
現実から逃亡したら、自分の個性をどうやって確認できる
のだろうか? とも考えさせられた。
自分の性変異は、この現実の男女世界の中で誕生し、育
んできたのではなかったか。普通の男に生まれながら、女
性ホルモン投与その他の、現在受けられる、可能なあらゆ
る医術を駆使して、シーメイルになるという欲求は、現実
の美しい女性像に自らの身体を模すという、現実の男女が
織りなす性世界で達成されたものだ。
その現実の男女世界をシャットアウトしたら、自分の欲
望は決して充足しないだろうと思われる。
見られ、見返すという所作抜きに、自分の秘やかな快楽
は得られない。又、この快楽抜きには生きて行けそうもな
いのだ。この快楽を研ぎ澄ますために努力してきたのでは
ないか。
その意欲を失ったら、何もできそうにない。その、何も
できないという虚しさを噛みしめさせられたのだ。望むこ
とを何もできないということほど、非人間的なことはない
と悟らされた。人間性の欠落だ。
オルガスムの欠損と同じくらい重大な危機だった。性的
な快楽だが、普通の人にあっては異常と見なされる性の様
式のようだが、早田にとっては正常なる理性的性的快楽で
あり、有り様だ。両性具有という美しい希求をも併せ持っ
ている。
早田がユリカに憧れたのは、彼女の美しさと、そのアン
ドロギュヌス性故だった。彼女を模像として、自己の肉体
を改変してきた。今や、彼女の心の中を吾が物にする段階
にきたようだと、早田は思った。肉体の改変は完了したの
だ。
ユリカに女性の性生理が復活した今、自分の男としての
性生理も復活して欲しい。早田の肉体はそれを予感し始め
ている。性生理のある、対なる両性具有者同士として暮ら
したい。
後はこの肉体で、女装して通すという性の意志を維持す
ることが、早田が生きて行く上での心の支えだ。ユリカと
なら可能だということが、最も嬉しいことだ。昔憧れたユ
リカの本像と結婚できることに悦びの念を覚えた。
このようにしてカレの独特な性の様式は、社会の中で確
立され、自己満足も得られるのだ。個性があるという自意
識ほど、人間に生きていると実感させるものはないようだ。
人は皆、ユニークなことに生き甲斐を感じるのだ。
早田の母親は、息子のことを、突出してみっともない有
り様だと言っていたが、早田には、突出して美しい有り様
なのだ。世間に突出して存在しているという楽しみを持っ
ていることを、カレは幸せに思う。自己表出意欲は強いよ
うだ。これが弱い人間なんて馬鹿臭いとカレには思える。
自分の個性は豊かに育んできたつもりだ。それは皆ユリ
カの存在のお陰だが、これからも彼女と一緒に、より一層
磨こうとカレは思った。
一時孤独だったことが薬になったようだ。社会の中で、
自分が追い求めるべき姿を見つけ、定めることができたの
だから。ユリカとの出会いが、自分の運命を決めたのだと
思えた。その運命に賭けたいと思った、自分の人生を。
ユリカは、夢の世界でこそ花咲きときめいてきた青春の
胸の高鳴りが、現実世界で表出し得、体験できる身になっ
た幸せに、毎日酔っていた。あれほど嫌いもし、押し隠し
ていた過去が、親近感の眼差しで見ることができる逸楽に
陶酔していた。
昔、大いなる気恥ずかしさを伴って盗掘して現在に蘇ら
せていたものが、日の目を拝めるようになったのだ。
再生した女王宮が描き出す波紋に合わせて、毎日槌音高
く、石娘だった頃に記憶化されて瞑っている化石を発掘し
始めていた。それらの中で一際美しく輝いている宝石は、
早田と一緒だった時だ。
その人物と結婚できるという幸せな想いを、胸いっぱい
吸い込んでいた。過去に於いて、二人の間で密かに培って
きたことは、二人が十全なる躰になって結婚して、子供を
産むことによって完遂されるのだということに、ユリカは
気付いた。
確かにユリカの過去は変容されたのだ。早田と再会した
ことにより触発され、自身の内部で男と女に引き裂かれて
いた意識が、早田という男女と合体することにより、統合
された性、つまりアンドロギュヌス性の完成へと辿り着い
たのだ。
昔、それは不安定な性座だったが、今では安定な足台に
なっている。ユリカと早田が互いを支え合う土台になって
いる。二なるものが一つになったのだ、早田という二なる
ものと合体したことにより。二なる者同士が互いに見合う
対なる相手と巡り合えたのだ。女を男に、男を女にし合え
る人物同士だ。
これから二人力を合わせて、脱ジェンダーのカップル目
差して、共に互いの性意識を鍛えて行こうと、ユリカは決
意を新たにした。
自分が早田の美しい幻覚だとカレは言ったが、この躰が
幻ではないということを、具体的に提示したい、現覚にな
るよう努力したいと思った。
刻一刻、カレが幻覚の呪いの網の目を縫い上げ、不能と
いう呪縛の鉄鎖を編んでいるのなら、本物の現在を吹き込
み、生気に満ちた肉体関係で互いを織り上げたいと、ユリ
カは熱望した。
ユリカは自室でお化粧を落とし、顔を洗いにバスルーム
に入った。石鹸で洗い、鏡を見やった。生気に満ちて、澄
んで、遠くを射るように見つめる眼差しの先の焦点に、ユ
リカの素顔が弾んで映えていた。
やっと自分の素顔に慣れたところかも知れない。しかし
まだ、これが本当に自分の素顔かしらと半信半疑で、ユリ
カは自分の頬に手で触れてみた。反応は、本物の自分の知
覚だった。
鏡像は確かに自分の肉体の象徴だと解り、嬉しかった。
鏡像は確かに、別人ではないと実感でき、逸楽を投げ返さ
れたように思った。
鏡像が、美しい笑顔で微笑んで見守っていた。この、超
人間的に心眼に映る心象のような形姿を、人は面(ペルソ
ナ)と呼ぶようだが、その心象を大事にしようと思い、再
び鏡面を覗いた。
その表面に、過去の幾度もの内面のペルソナを垣間見、
その咀嚼可能な現象、そして希望へと連なる想いの幾つも
を見て、微笑んだ。そして、自分に新しい魂を吹き込んで
は消える幻覚との接点に感謝して、その顔に挨拶するかの
ように、自分の顔に頭を下げた。
何かとろけるようなペルソナに釣られて、ユリカの瞳は
恍惚としてゆき、その内密な心の裡が自然発生的に刻まれ
るリズムに乗って、ユリカの躰は踊るように動いていった。
自分の鏡像に魅入られつつ、幸せな雰囲気に包まれ、自
分の素顔の人格を見返していた。自分の心象に見合う鏡像
と、しばしの間、官能の愉悦の交感をしていた。確かに胸
のときめく数瞬を味わっていた。自分の素顔を肯定できる
鏡像を眼差せるのは快い初めての経験だった。
幻覚は、それを生きれば生きた現覚となる、と、ユリカ
は想った。
その時眼差しは、ダイヤモンドの燦々と煌めく余韻に収
斂し、見つめることの逸楽を、煌めきの周りに引き寄せて
いた。悦びの粒子に結晶したかのような瞳に見えた。
この悦びを過去の自分と分かち合いたいと、その時思っ
た。すると玲維の顔が、幻影肢でもあるかのようにユリカ
の顔の隣に映り、にっこりしてリズムを取り始めた。玲維
の顔を初めて肯定できると思った、今は亡き人故。生気に
満ちた表情で、彼が励ますかのように自分を見返している。
過去の時空に現在の自分が祝福されているようでもあっ
た。過去がこうして明るいものになってゆくようだった。
何度葬ったかも知れない玲維が、にこやかに笑顔で自分を
見つめていた。昔、羞恥心で見つめていた玲維を、ユリカ
も今、和んだ心持ちで見つめることができる。
過去に於ける自分の男存在に別れを告げる、女としての
意志の保持の時代は過ぎ、過去を温かい目で見直すことが
できることに、自ら納得できると思った。自己肯定できる
喜びに浸れる玲維の顔に挨拶した。香り高く過去から変身
した自身の姿が、殊の外美しかった。
その深く穿たれた自分の眼差しの果てに、やがて早田の
顔が現れた。自分の夢幻であったカレの素顔が、清々しく
微笑んでいた。その男とも女とも取れぬ、しかし妖麗な肢
体にユリカは、自分の玲維としての過去を重ね合わせた。
揺らめく妖艶な自身の記憶が、早田をより美しく幻惑的
に際だてていくようだった。それを助長する自分の官能の
昂りを感じていった。そして、早田の像がユリカと繋がっ
て踊っていた。それが対象であることを、ユリカは幻を見
るかのように実感した。隣を見た。
『たとえ、わたしの眼差しの彼岸に狂気が踊っていよう
とも、わたしの歩む道は歪まないでしょう!』
完 アンドロギュヌスの肖像V(掲載予定)
|
|
|
|
|