両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第三章  仮面の面影   -3-  少女奪還


 次の日さっそく二人はFSXに乗って、早田の別れた妻 である向手幸子の実家を検分しに行った。お昼過ぎ、幼稚 園の送迎用バスから子供が降りて、家に入った。名前は今 子というのだそうだ。まるでイマーゴ(幻覚)みたいと、 一瞬ユリカは思ったが、口にはしなかった。
 一時半頃、幸子が娘を連れて出てきた。追けて行くと、 彼女は近くの小さな公園に入り、滑り台に乗せ、遊ばせ始 めた。子供は滑り台から降りる際に少し転げて、男の子用 の半ズボンを汚した。それを幸子が怒って往復ピンタで折 檻する。子供がワッと泣き出す。その図をユリカはビデオ に収録した。
 滑り台を止めさせ、幸子は今子に鞭を持たせ、電柱相手 に叩きつける練習をさせている光景も録写した。幸子も、 まるで男としか見えない風体をしている。いずれ裁判にな るだろうと思われるので、母親の行状を記録しておくべき だと思い、ユリカはハンディー・カムを持参していた。
 次の日は日曜だった。朝の九時、幸子が黒の革ジャンに 黒のスラックスという服と、黒い男物の靴を履き、黒いア タッシュケースを持ってオートバイで外出した。午前10 時、子供が昨日の公園に行った。すぐ近くなのだ。早田は 車を降りると走って行った。
 「今子!」
 と叫んだ。
 「あっ、パパ!」
 と子供は目を輝かせてパパにしがみついた、早田は娘を 抱き上げて車に乗った。ユリカはすかさず車を発進させた。 一路若宮家へと向かった。パトカーとか交通巡査に出会う 度に心配したが、何のトラブルもなく家に着いた。
 今子ちゃんは、初めて見る内をきょときょとと見ている。 心配げな表情だった。
 「パパと一緒に、ここで暮らそう、いいだろう?」
 早田が、子供の心を落ち着かせるように、娘の頭を撫で ながら囁くように言った。その言葉で安心したのか、今子 ちゃんはこくんと頷いた。ユリカは、幼い子供の心を乱さ ないように、二人だけにして、彼らの部屋を去った。子供 用のフレンチトーストを作り、それをみんなで食べて、昼 食を終えた。
 初めて見るユリカのパパの顔を、今子ちゃんは人見知り し、俯き加減に見やっていた。要三は柔らかい微笑みを送 り、
 「お爺ちゃんだよ。」
 と声をかけた。早田の膝の上で、今子ちゃんは不安そう だった。やっとの思いで泣き出したい気持ちを、パパの首 にしがみつくことで抑えているようだった。
 「これから、この人達と一緒だよ、今子、いいね。」
 早田が再び、今子ちゃんの頭を撫でながら、囁くように 言い聞かせた。今子ちゃんはパパの頬に自分の顔を擦り合 わせた。
 「じきに慣れるじゃろ。」
 お爺ちゃんになった要三が笑いながら言った。
 ユリカは、池袋のデパートに行き、女児用の衣類や人形 や靴を買った。帰ると、今子ちゃんは昼寝をしていた。 よく見ると、この子は早田に似た顔をしている。六時頃、 今子ちゃんはお腹が空いたのか、鳴き声を出したのを早田 があやして、ダイニングに抱いて入ってきたので、みんな で夕飯にした。今子ちゃんには離乳食を用意した。
 夕食後、早田に子供と一緒にお風呂に入らせ、出ると、 衣類を女の子用にした。そして、縫いぐるみのコアラを抱 かせた。今子ちゃんは物珍しげにコアラをいじり回してい た。初めて触る仕種のようだった。今まで、母親に、男の 子用の玩具しか触らせて貰えなかったのだと、早田は言っ ていた。今日は疲れているようだったので、早田と一緒に 寝かせた。


 その日、向手幸子は大奮闘していた。鞭で同じマンショ ンの主婦を打ち据えて、今子をどうしたと叫んでいた。そ して、つい先日まで早田と住んでいたマンションへオート バイで駆けつけ、住人に片っ端から、早田がどこへ引っ越 したのか聞き出そうとしたが、誰も知らない。大家さんも 知らないという。
 次に幸子は早田の両親のマンションに直行し、同じく鞭 を振るって、母親に問い質したが、知らないと言われ、土 足で踏み込み、調べたが確かに住んでいる形跡は無い。
 「たわけ、糞婆、必ず今子は奪り返すぞ!」
 最後の鞭を母親の額に振るって、くるりと向きを変え、 オートバイに跨り、アクセルをグワングワン吹かせた。
 「自分で逃げ出したのさ。」
 母親が幸子の背中に罵声を浴びせた。幸子は勢いよく発 進させると、大学の事務に行った。休学届けが出ている。 住所の蘭は元のままだ。新しい住まいを訊いたが、どこだ か不明とのこと。
 もの凄い形相で家に帰ると、警察に知らせた。元の夫で ある早田に子供を誘拐されたに違いないので、早田の行方 を追って欲しいと。早速捜索活動が始まった。しかし、別 の人物による誘拐の可能性もあるので、公表するのは二三 日待とうということになり、捜査は、早田の行方に絞られ た。
 しかし、早田の行方はじきに知れていた。警察の組織的 捜査は甘くはない。しかし警察はすぐには若宮家に来なか った。それは捜査の都合上故だ。いろいろと調べたいこと がある人物達なのだ、この事件の関係者は。それに、子供 は実の父親の手元におり、無事に匿われているので、そう 心配はない。幸子に身代金を要求しているわけでもない。
 三日後の朝、ユリカは再び幸子の実家近くにFSXで出 かけて待機していると、幸子がいつもの真っ黒スタイルで、 アタッシュケースをオートバイの後部の席の下にしまって、 乗って出かけた。ユリカは追けて行った。
 幸子は、渋谷の小さなビルが密集している地域の、金融 会社の表札が出ている建物に、アタッシュケースを持って 入って行った。エレベーターが二階で止まったのを確かめ、 階段を昇った。二階には二部屋ある。暫く佇んで耳を澄ま していると、鞭が壁を打つ音と、男の呻き声が聞こえてく る。
 ユリカは、急いでその建物を出て、その部屋が覗けそう な、通りの向かい側のビルの二階に昇り、トイレに入った。 丁度その部屋が見えるので、望遠ズーム付きのムービーを さっそく向けた。トイレは内側からロックした。
 スリップ姿の痩せた男が、両手を上に上げさせられ、手 首で縛られ、天井の金具から吊り下げられた紐に結ばれて いる。足首も結わえられている。幸子の面相が凄まじく歪 んでいる。幸子は鞭で床や壁を何度も叩く。三分に一度の 割で躰を打ち据える。幸子の顔が狂気に震えている。
 十分に一度、エレキショッカーを男の躰に押しつける。 男の全身が痙攣する。そんなことが三十分も続いた。そし て怖ろしい瞬間が現実のものとなった。まさかの一言に尽 きる。幸子は腰のポケットからジャックナイフを取りだし た。それから男のスリップの裾の下着を捲り、エレキショ ッカーを男のファーロスにあてがった。男は絶叫した。そ の男の屹立したファーロスの付け根を、ナイフが一閃した。 男は切り取られてしまったのだ。
 ユリカは思わず目を瞑ったが、ムービーは回っていた。 幸子の顔は残忍な喜悦に燃え、ヒステリックな目の輝きを 煌めかせ、正に狂人に刃物といった表情だった。
 しかし、悲劇はまだ続いた。そこに、男の絶叫でいつも と様子が違うと、男が二人入ってきて、二人の様子を見る と、幸子が、切り取ったファーロスを彼らに投げつけた。 男達は幸子を掴まえ、口を塞ぎ、お腹を幸子のナイフで突 き刺した。
 そこに別の男が三人飛び込んできて、男達を取り押さえ た。刑事らしかった。すぐに救急車が二台やってきて、幸 子と切られた男が乗せられ、去って行った。悪夢を見たと、 ユリカは思った。ユリカは躰が震えていたが、建物を出て、 車で家に帰った。すると、それを待っていたかのように刑 事が二人やってきて、応接室で早田とユリカにことの経緯 を聞きただし、幸子が入院している病院を教えて帰った。
 早田は急いで今子ちゃんを連れて、ユリカの運転で病院 に行った。幸子は二人を見ながら死んだ。ユリカは撮影し たビデオを警察関係者に渡した。その事件は新聞やテレビ で報道された。しかし幸い、早田とユリカは名前も出ず、 逮捕されなかった。
 ファーロスを切り取られた男は、暴力団員で、その仲間 が幸子を刺したとのことだった。今子ちゃんの誘拐事件は 報道されなかった。今子ちゃんが早田の住んでいる若宮家 にいたことは、警察では一昨日から判っていたとのことだ った。
 事件の前に早田がクラス会に出て、その会でユリカと二 人だけで話していたと、会の幹事から訊きだしていたため、 ユリカの家である若宮家を探ったところ、そこで見つかっ たのである。しかし、幸子が暴力団と関係があったことも 判っていたので、捜査は、早田と暴力団が何か絡んでいな いかに及んでいた。
 暴力団の内部抗争かも知れないので、それを調べてから、 今子ちゃんを救出するつもりだった。しかし、元の夫が我 が子を連れて、昔の知り合いの家に隠れているだけだと分 かったので、つまり、早田が暴力団とは関係がないと、つ まりそれが白だと判ったので、今幸子の手元に子供を返す より、子供の安全性は高いと判断し、幸子の行動を探って、 暴力団と絡んでいたら、そこを手入れすれば、より多くの 成果を上げられるのでその線で行こうと決めた矢先の事件 だった。
 こうして、今子ちゃんは、父親である早田佳織の手元で 育てられることになった。ドラスティックな(強烈な)ト ラジェディー(悲劇)は終わった。幸子の異常なる性格も 世間に知られなかった。そして早田の尋常ならざる性癖も。 早田は青ざめる思いのする生活を強いられたが、愛する子 供である今子と一緒にいられるようになった幸運を、深く 神に感謝した。
 早田は当分、今子ちゃんと一緒に若宮家で暮らすことに なったが、今子ちゃんの身に着いてしまったマゾヒズムを 直そうと、ユリカと協力した。紐で縛ってくれるように頼 んだり、テレビの時代劇などで、白州に悪人が引き据えら れる時など、喜んでその真似をして、「へへーっ」と言っ て平服するのである。不思議な心情だと思えるが、本人は 真面目なつもりらしい。
 それにはさすがの早田も呆れた。そこまでは自分はした ことがなかったから。どうにも同意しかね、その都度、強 く、そういう真似をしてはいけないと諭した。そう躾けて いった、食事時のマナーのように。
 今子ちゃんは、時々、ママに会いたいとせがんだが、死 んだということがどういうことか判っていないことを、 早田もユリカも察して、唯、「もう会えないのよ、ママは 天国に行ったので」と、優しく言うだけだった。
 早田の両親が若宮家を訪れ、要三とユリカに頭を下げた。 里中家へも挨拶に行った。早田の父は、里中樹希 と高校、 大学と同級生だった。その同級生の子供達が夫婦みたいに 暮らしている。いや、佳織とその子が面倒を見て貰ってい る。不思議な縁だと彼らは考えた。
 ユリカは、今子ちゃんに、鞭を持つ代わりに、新体操の リボンを持たせ、ビデオを見せて練習させた。そして輪に なっている紐で綾取りを教えた。その甲斐あってか、今子 ちゃんはみるみる女の子らしくなっていった。
 ユリカや要三にも慣れていった。そんな姿を見るのは、 ユリカにとっても嬉しいことだった。早田は安心して学問 に身を入れているようだった。生気を取り戻したのか、段 々若々しく、更に艶めかしくさえなってゆくように感じら れた。今子ちゃんを近くの幼稚園に入れたため、ユリカは 送り迎えするようになった。





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 4章 ∴





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