アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱
第三章 仮面の面影 -4- 模像罠
早田との共同生活は、その子供の順調な生長振りと相俟
って、楽しいものだった。実り豊かな毎日だった。パパも
気に入ったらしく、時々庭で今子ちゃんを抱き上げたりし
ている。
二階のユリカの隣の部屋に、お人形や縫いぐるみ、その
他の遊び道具を入れたので、今子ちゃんは二階にも毎日上
がってきて、そこでユリカに相手をして貰ったりするよう
になり、ユリカにも慣れていった。そして、ユリカのこと
を「ママ」と呼ぶようになった。
ユリカの手で、自分の娘の面倒をみて貰えるようになっ
た早田は、精神も安定し、好きな研究に打ち込めるように
なった。それはユリカにとっても嬉しいことだった。そし
て、早田が自分の部屋から、ワンピース姿で出入りすると
ころを見かけるようになった。今子ちゃんは、自分のパパ
は昔からそうだったので、びっくりもしないし、ユリカに
話すこともなかった。
早田は、ユリカとなら安心して倒錯出来ると思い、内心、
より一層の女性化願望の虜になっていたのだ。昔ユリカは
男としてすごしていたが、女装もしていた。そのレイのよ
うになりたいという望みを持つようになっていたのだ。
サディストの幸子に女性化されるより、自由に女性性を
磨けることに気がついたのだ。起きてから寝るまで、文章
を書くにしても女として、服装も女として、考えることも
女らしく、つまり一日中、あらゆる面で女性性を磨けるよ
うになれたと思ったのだ。男として振る舞わなくてもよく
なってしまった、性的に自由になった。
そしたら、文章力が爆発的に開花した。もう後へは戻れ
ない。一度この味を舐めてしまうと、もっと女ぽくなりた
いと思うばかりになった。身につける物は全て女物という
風体で外出する。大学に行かなくなったのも、そういう行
動を自由に出来る要因のようだった。出かけるのは、池袋
や新宿などの本屋さんや、ブティックなどだったが、最近、
別のところに足繁く行くようになっていた。
それはエステサロンだ。髭やもみあげや脇毛や臑毛を、
電気分解でなくして貰うべく、通うようになっていたのだ。
第一クールから第四クールまである。全て合わせて二ヶ月
かかる。費用は五十万円くらいだ。早田にとっては大出費
だが、大いなる欲望にしては安い物だとカレは思った。
そして、女性ホルモンを注射して貰える医院をやっと見
つけ、一週間に一度通うようになっていたのだ。その他、
錠剤も数種類、毎日飲む量貰っている。そういうわけで、
早田の肉体は徐々に女性化し始めていた。それをユリカは、
若やいで見えるようになってゆくと思っていたのだ。年末
には、皮下脂肪が薄く皮膚の下に分布し始めていた。
髪の毛はもともと細くしなやかだったが、それも完全に
女性の艶を備えるまでになっていた。美容院にも行く。電
車の中でコンパクトを開いて、お化粧するようになった。
それにはさすがのユリカも参った。おかしいと思った。
今子ちゃんが、「パパ」と呼ぶと、
「ジュ ヌ スイ パ パパ (ボクはパパじゃない)、
イッヒ ビン ママン (ママ男だよ!)!」
などと冗談を言うが、それが本心なのだろうと、ユリ
カは察した。今子ちゃんは、「ママン」と呼び始めた。そ
う呼ばれると、早田は嬉しそうに娘の頭を撫でる。
早田のウェストが高い位置でくびれ、胸の膨らみも目立
ってきたが、それは、ブラジャーにパッドでも入れている
のだろうと思っていた。年の瀬に、カレが風呂から上がり、
偶然今子ちゃんが更衣室のドアーを開けたら、カレの裸体
が見えたのだが、乳房がまだ小さくはあるが、おっぱいの
形が出来上がりつつあるとユリカには見え、ビックリした。
早田は、おっぱいを吸引機で発育させる療法も受けている
のだ。
年が明けて早々、早田が外出している間にユリカは、早
田のデスクの引き出しを開けてみたら、発情ホルモンと黄
体ホルモン、それに精神安定剤などを見つけた。ユリカも
病院で同じような薬を処方されているので、薬の名前を見
れば分かるのだ。ついでに診察券も見つけた。奥沢医院と
ある。そこに電話してみると、受付の女性が、患者さんの
プライバシーに関することは、一切言えないとのことだっ
た。
普通の男が女性ホルモンを飲むとどうなるか、ユリカは
知っていた。副腎皮質や脳下垂体のホルモン分泌が狂い、
死に到ることもある。射精不能になって、精神の平衡が失
われ、凶暴になることもある。そして、痴呆症に罹る可能
性も高い。
その上、副腎皮質と脳下垂体と睾丸の女性ホルモン分泌
能力がなくなり、薬無しでは生きてゆけなくなる。男も女
性ホルモンを小量、必要な分だけ分泌するのだが、別途に
投与されると、その機能が失神してしまうのだ、永久に。
もうそうなっているかも知れない。
もう、見た目には充分な女躰だ。これ以上には女性化出来ないところまで来て
いる。大学の健康診断でどうなることか心配だ。仲間にど
う思われるかも。一挙に心配の輪が広がった。
早田は誰も家へ連れてこない、友人はいないのだろうか。
電話もかかってこないし、自分からもかけない。普通の青
年の行動様式でない。勿論ガールフレンドもいない。男と
付き合わないところをみると、ホモでもないようだ。
その夜ユリカは、早田と二人だけになり、二階の自分の
部屋で話をした。
女性ホルモンの投与が過分になると、馬鹿になるわよ、
アナタ。」
「知っていたの? ボクの必需品なんだけど。」
「今日知ったのよ。アタシとアナタの頭の中の女躰と、
どっちが本当の友達?」
ユリカは平静さを装って、探りを入れる機を窺うように
問うた。急所を突かれて、早田は狼狽し、項垂れて、目を
白黒させてユリカを見やった。
「生きている友達は君だけ、でもボクには、内部に、ボ
クから成り代わる幻想の女が生きているんだ、その
人物抜きには生きてゆけないんだ、その女存在がボクより
現実的で具体的でもある人間なんだよ。その女が自分に相
応しい肉体を欲しているんだ、ボクの躰を時空世界
にして。」
「みんなそう思っているわ、シーメイルは。アナタの内
部では、既に幻想と現実が入り交じった女が主役になって
いる。多重人格パラノイアになりつつあるわ。今のところ、
それが文章を書くのに役だっているようだけど、度を超す
と分裂症と後発性の痴呆症に発展するわ。
アナタはもう、薬無しでは生きては行けないでしょう。
その躰を元の男に戻すのは不可能だわ、心身共に。不可能
なことは言わないけど、まともに生きていたいでしょう、
アナタだって。たとえ、女躰男のままであろうと。考える
ことが女性になることや、外見が女になることぐらいなら、
アナタなら可能なことだと思うけど、この辺で折り合いを
つけないと、アナタは廃人になってしまうわ。
もう手遅れかも知れないけど、投与する量を徐々に減ら
す以外に助かる道はないのよ、これだけ女の躰になって、
まだ不足なの?」
「ボクもこれ以上女っぽくなれるかどうか分からないと
ころまできている、最近。心は子供の頃から女だったのが、
最近、それが満たされて安寧な気分なんだ。幸せな体感を
覚えているんだ、この気持ちが分かってもらえるかどうか
確かでないけど、一応の成果だと思っている。夢のような
感覚だけど、とても幸せな想いでいられる。この現状を維
持したいんだ。」
「幸せを願うのは人間の本性だから、アナタの躰につい
ての欲求を認めないというつもりはないけど、ここいらで、
ホルモン投与は少しずつ減らしていきましょうね、長生き
するために、今子ちゃんのことも考えて、親なんだから。
その躰じゃあ、女らしく振る舞わないと奇異に映ることよ。
心の女性化を計ることが、アナタには求められている
のよ、今では。そこにアナタの人間としての、完成される
べき目標があると思えば、躰が少し追随出来なくても、充
分な快楽が得られるんじゃないかしら。思考の世界での女
性化よ。アナタ、そういうことならとても可能だと、自分
でも思うから、そうしているんでしょう。その次元でなら、
アタシもお手伝い出来るわ。
アナタは、女へとどんなに自己擬制しても、満ち足りる
ということはないでしょう。普通の女でもそうなんだから。
躰がどんなに女性化しても、自分はこうなるべきなんだと
いう自己肯定の要素に留まり、心の満足感の側面的事実で
あり続けるために、男としての原型をどれだけ乗り越えら
れるかという外面的基準でしかない。心を満足させるには、
芯から女になりたいと、不定の欲求に終始するばかり。
つまり、女躰への進展は、模像への自己拘束の段階に留
まり続け、決して留まることのない欲求で終わるのよ、死
ぬまで。それは本物の女とて同じことよ。女は仮面を着け
ていなければ不安で仕方がないというのが現実だから、男
から女へと自己擬制する人も尚のこと仮面を追い求めると
いうことになるわ。それがアナタの現在のペルソナでしょ
う、つまり、アナタは既に女の領分に分け入っているのよ。
男と女の仮面とペルソナを深化させるという世界で、ア
ナタとアタシは幼い頃から結ばれていた、それは確かなこ
とよ。アタシはアナタがいたお陰で人間でいられたと思っ
ているわ。それ故、アナタを助けてあげたいと本心から思
っている。
性的な次元での面とペルソナの世界を、アタシはアナタ
との出会いによって深化させることが出来た。アナタは仮
面劇の分野で、心の葛藤を発展させてきた。
それはとても素敵なコンビだった。それを壊すのは、ア
タシにも出来ない。でも、アナタが死んでしまったら、元
も子もない。だから、女性ホルモンの投与を増やすことは、
これ以上は止めて欲しいの。アナタは心の次元で、深く思
考する能力がある。それを磨いて欲しい。そのお手伝いを
したいわ。」
「ボクは、自分自身、こういう世界に嵌まり込んで行く
自分を怖がってもいる。どうしたらいいのか分からないう
ちにどんどん進んでしまった。そんな自分を見放している
別の自分がいる。それも怖い。内部から、自分に聞こえる
別人の声がする。」
「それみなさい、それは分裂症の初歩的段階よ。それが
進展すると、空間的立体的実像として聞こえてくるわ。ア
ナタの心が、もっと女になりたいと思えば思うほど、その
症状は発展するわ。それは、アナタの生まれが男だからよ。
でも、もう女の世界に入り込んでいるんだから、そこから、
吾を失うという病人の世界に踏み込まないように、抑えな
いと。
薬の投与を続ければ、アナタの官能は死ぬかも知れない
わ、今がその境目よ。アナタの躰で体現しうる最高度の女
らしさに既になっているのよ。これ以上女にはなれないの
よ。」
「いつか、こういう日がくると思っていた。ボクは、君
をイメージして、オンナになりたかったんだ。ビクマリオ
ニスムス(異性形状嗜好)ってところは達成されたけど、
心まではそうならない自分が恨めしい。それで、もっとも
っとと薬を打って貰うようになった。でも、外見だけでも
オンナになったことが、精神にかなりの充足感をもたらし
たのも事実だ。
そういうボクの心を理解してくれるの、君だけだ。打ち
明けるとこんなに寂しくなるものかと不思議だ。躰が躯に
なっていくような気がする、他人の躰だ、生きた心地がし
ない、お願い、そばにいさせて。」
早田がユリカの胸に頭を埋めた。ユリカはカレの躰を抱
き寄せてさすった。カレを救うことが可能なのは、愛なの
だろうと思った。
ユリカがつい先年まで背負ってきた、オトコという仮面
を着けたオンナだったという、多分に翳り深い部分が、早
田にとっては光輝く羨望の的だったという事実を、ユリカ
は心苦しく思った。ユリカの非有機的肉体が、カレにとっ
ては取っつき易い模像罠だったとは気がつかなかった。
自身は、他の模像を模し探して生きてきた、ヴィヴィッ
ドな性を。そんな性を憧れていた自身の空無感までは、早
田に伝えられなかったようだ。一緒に倒錯ごっこをしてし
まった。
そんな早田の存在のお陰で、自分はかくまでオンナらし
くなれた。しかし早田は、ユリカの存在のせいで、デッド
な性へと墜落してしまった。墜天使になってしまった。こ
うなるなんて想像もしていなかった。ユリカよりも儚く乏
しい性的夢を抱いていた人物だったとは、何と哀れなオト
コだろうかと、嘆かわしかった。
人間の性意識は不安定なものだということを、ユリカは
嫌と言うほど味わってきた。その揺れ動く内面世界は極め
て味わい深く、面白いものだということも知っている。男
女に分かたれている人間の宿命のようなものかも知れない。
分かたれている限り、必ず登場する意識かも知れない。早
田はまだ正常な範囲に留まっているようだ。
美女に化けることは大いに結構なことなのである。人間
の正常なる欲望の最たることのように思える。その点早田
は、人間合格の範疇にいること間違い無しだ。ところが、
それが医学の今日的水準では充分に達成されない。それ故
にシーメイルの段階でストップをかけられるのだ。
果たして、本気で一度も、他の性に心身共になりたいと
願ったことのない人間がいるだろうか? そう願ったこと
のない人間は、性という衣を着た機械に過ぎないと、ユリ
カは思う。
そう思うユリカにとって、早田は性的に良き伴侶である
ことは間違いないのだが、カレが無性人間になることだけ
は防がねばならないと思う。
若宮要三は、女装している早田をうろんな目で見ていた
が、今子ちゃんには優しかった。まるで自分の孫のように
可愛がった。それで、「お爺ちゃん」と呼ばれるようにな
り、分け合いあいとした雰囲気になった。
そのパパに頼んで、早田の女装姿を絵にして貰った。も
っとも早田は、モデルとして要三の前でポーズを取るのは
気が退けて出来なかったが、ユリカが撮ったビデオを基に、
数点油絵にして貰った。
要三の学生時代にも、美意識の虜になって、自分自身を
美の化身にすべく、女装する学生がいたことを覚えていた。
しかし、早田を心配していた。早田が、自分自身が美しく
ありたいだけで女装するのなら良しとしようと思うと、ユ
リカに言っていた。それは、G A Y 大風の人間だよとも。
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