両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第一章 再出発   -5-  性的形象の翳


 朝の5時にユリカは起きると、ミニのうす衣を纏って庭 に出た。まだ罅割れしていない栗の毬を竹竿で叩いて落と し、バットとサンダルで表面を剥いで、まだ乳緑色の栗の 実をほじくり出した。初秋のクリーム色した光に良く映え ている。小学生の頃、それを見るのが大好きだった。


 『憐れ、アナタは毬栗娘。内部の乳緑色した栗の実が似 合っている。柔らかな秋の陽射しに心が豊かに染まってゆ くみたい。その景色の中で、ワタシは変身した姿を確立す る。まだ、未熟な毬の中身に過ぎないけれど、いつか青春 の棘で躰を覆っているコムプレックスも抜け落ちるでしょ う。その日を待ち望んでいる。
 ワタシの女心は、まだ乳緑色してデリケートに内向する ものだけど、そのまま皮を剥いて外に、そのままの心で転 げ出したい。誰か、叩き落として剥き出しにして欲しい。 乳緑色に官能が窒息しないというのも、実に久しぶりのこ とだわ。』



 ユリカは、それらの栗の実を部屋のデスクに並べると、 顔を洗いに洗面台の前に立った。そして鏡を見つめた。透 き通った自分本来の瞳に、生気が蘇っていると実感出来た。 歯を磨いてからぬるま湯で顔を洗った。瑞々しい顔が水分 を含んで少女っぽく見えた。水も滴るいい女っぷりだった。 しかし、それも束の間、玲維の顔が現れた。
 玲維を凝視する両の眼が、空洞であるかのように見えた。
 「さよおなら玲維。骸骨になったようね。」
 白いミニのネグリジェ姿のカレが後ろを向き、裾を翻し て去って行った。異界へ去って行ったのかもと思った。
 「自分を本当に葬れるのか?」
 何者かの声が聞こえ、又々幻覚の閃きの数瞬が訪れた。
 「出来るのよ、今日から。」
 ユリカが応えた。
 「お前は死祭になると言うのか? それは出来ない。ワ タシはお前の幻にして実体、いつまでも現れる。しかし、 どのような姿でかは永遠の謎だ。それがお前のお気に入り の実態でもあるだろう。」
 鏡像はユリカに戻ったが、まだ仮面のような気がした。 自分の眼も仮面の眼のように、空の世界への通路のように 思われた。この蒼い空洞こそ、現実と異界と神界を行き交 う、霊光の通路に違いないと思った。
 今朝は、玲維の顔は明るかった、自ら流転するにしては。 玲維が初めて他人に見えた朝でもあった。自分の心の中で やっと、他者化され、記念碑化され、客体化されたオブジ ェとして映ったように思われた。
 鏡像が初めて頷いた。自分の心に頷いた初めての鏡だっ た。
 「いつでもおいで、玲維。」
 こんなに清々しい思いで目覚めたことは今までなかった。 目が醒める頃、今までだったら毎朝感じていた不安や厭性 感からくる厭世観や自己嫌悪がなかった。そして、今朝は、 目覚めることに悦びの念を覚えた。こんなことは初めてだ。 急いで飛び起きた程だ。もう、男として目覚めることはな いのだと覚醒するのは、心和むことだった。
 しかし、玲維はまだ現れるだろうと思ったが、それは、 女のユリカとしての人格から捉え返される自分の過去だが、 それが他者化されるのは、自分の内部でなのだと思った。 自分は、カレという過去の奥津城でもあるということだ。 それは多分、自分の死によって一体化するのだろう。それ が両性具有者の運命的邂逅と別離だと思った。
 心象の泉の底深く、ナルシスでさえ見なかったであろう、 己が性の本性を垣間見たように思った今朝、眼差しは澄ん でいた。その視線の彼方で、男とも女とも定かでない麗人 の、いや、本物のアンドロギュヌスの面貌が微笑んでいる。 それがワタシの外面のようだ。
 ユリカは鏡の自分の仮面に囁いた。そうしていると、ユ リカの顔が初々しく変わっていった。
 ブラシで髪を整え、朝食を用意しに、階下に降りて、キ ッチンに入った。バケットパンにレタスとヴルスト、カフ ェオレにトマトジュース、それにお味噌汁を添えてお終い。 調理したのは、お味噌汁だけだ。今朝の気分は爽やかだっ た。
 「グーテン モルゲン パパ!」
 とまず挨拶した。
 「やっ、お早う、今朝は清々しいね、空気も澄んでいる し、光の色もいい。」
 こくりと頷いた。
 「こんなに素敵な朝は初めてですわ!」
 ユリカはとても女っぽく応えた。その彼女の目が本当に 可愛げに、パパの視線を受け止めていた。
 「そうだ、その目だ、生きてるぞ、函館にいた頃の目だ。 生き返ったんだ。ここにきて本当に良かった。私はその目 に惚れていたんだ。
 そう言われてみると確かに今、ユリカは、パパの眼差し を心弾む想いで受け止めていることに気付き、一瞬そのこ とを恥じらい、それから無性に嬉しくなって、涙をこぼし た。それを振り払い、ぴょんぴょんと、両手を胸の前で握っ て跳びはね、悦びを表現した。
 「その目を描こう、今日の午前中。さあ、朝食を摂ろう か。朝から一緒に食べる人物がいるということは、実に楽 しくて、活気が出ていい。起きるのも嬉しい、屋敷に家族 がいるというのは、いろいろと安心感があるものだ。健康 にも何よりだ。充足した想いに浸れる。
 そう、要三はユリカに言ったので、そういうものかしら と思った。朝食を終え、食器を洗ってしまうと、ユリカは パパのアトリエに入った。
 さっそくパパは、2Hの鉛筆で、BBケントにデッサン を始めた。まずユリカの左足を少し左前方に出させ、右手 をウェストにあてがわせ、ほぼ正面から見据えて描いてい った。
 いざモデルになってみると、何とはなしに錯覚に陥って いった。ユリカをつぶさに見やるパパの眼差しに、自分の 裸形を見られているような気分になってくる。被視体とし ての自身の女性性に自信がないかのごとく感じられてくる。  画家の透明な視線に、自身の翳りある過去が浮かび上が っているような気がしてならない。この不安が何故なのか、 ユリカには解らなかった。自身の内省的意識に映る他人の 眼差しに、素性が問われるような気がする何かがある。過 去の玲維としてのやるせない心や、玲維という覆い隠した い生物を眼差しに捉えられているのではないかと、とても 心配になる。
 そういうのを描かれることに耐えられない状態にあるよ うだと、ひしひしと感じさせられる。自分が覆い隠したい 玲維の姿、それは相手がその気になればすぐにでも描ける 像であることは間違いないことだが、今の、ユリカとして 生活を始めたばかりの彼女には、悲しくも息苦しい姿なの だ。
 それでつい、恥じらいに顔を赤らめている。そういう今 の裸形の心を見られたくない気がして、その分躰が強張る ようだった。
 ワタシは、他人の眼差しの前に、物言わぬ塑像と化し、 官能を窒息させてきた。そういう時ワタシは、自身の内向 する感覚に縛られ、内部に向かって塗り込まれていくのが 常だった。
 物言えぬワタシは、仮面のごとく無機物へと変貌してい くばかりだった。その時ワタシは、男と女の間(あわい) を目まぐるしく変転する自身の性意識に自ら耐え得ない想 いで、官能の触肢を畳み込んでいた。すると、ワタシの感 覚は、自分は両性人間の石膏であるということをのみ感じ ていた。他人の眼差しは、それに形をつける竹べらだった。
 しかしそれはまだ、官能の麻痺の段階で留まり、ワタシ を固形化した恥じらいの形に幽閉するだけだった。躰に男 女がいるのが事実でありながら、そのオトコを露わさられ ることに、官能が麻痺するほど、強烈な羞恥心を覚えるの だった。
 それがこの瞬間から、意識的被視体として立っているの だ、画家の眼差しの前に。そうなってみると、官能の麻痺 の様子が手に取るように躰全体に伝わり、吾を失いそうな のを、必至で堪えている自我を自覚させられてくるのだ。 官能の麻痺は自ら耐えられずに爆発しそうなのだ。その瞬 間に今にも立ち入るような気がしてしようがない、じっと していられないのだ。躰がビビリ出した。
 「若い娘は、モデルになる最初の時は、吾を失うものだ、 ユリカ。」
 発振状態のユリカの全身を見やり、パパがニコッとして、 ユリカに声をかけた。ユリカは遂に堪えられなくなり、そ の場でジタバタと全身を動かし、急に、喉を引き攣らせて、 クスクスと笑った。生きてるわと実感でき、何故か気分が 落ちつき、今度は暫くじっとポーズを取っていられた。十 五分するとパパは手を休め、ユリカを解放し、ソファーに 腰掛けさせた。
 「ポーズ取っていた時、初めてだから、知らないうちに 力が入って固くなったと思うので、力を抜いて休んでね。 同じところに力が入ったままだと、とても痛くなるから、 気を付けないと。」
 十分ぐらいの休止を取って、再び同じポーズで立たせた。 ユリカは無理にニコッと微笑もうとしたら、唇がひん曲が ってしまい止めた。自分がどんな顔をしているか、とても 気になった。1時間ほどで一枚のデッサンが出来たらしく、 見せてくれた。本物以上にスマートだったのをチラッと見 た。
 見たいのだが、自分の像をじっくり見れない気分だった。 モデルとして立った時とも別種の羞恥心だった。鏡を見る より怖ろしい瞬間でもあった。どこをどう描かれたのか、 じっくり検分出来ないまま、中空を睨んでいた。2Hの鉛 筆だから、淡い陰影だなとは感じた。気恥ずかしさを紛ら わすかのように、ユリカはレモンティーを入れた。
 「大分落ち着いたようだな、ユリカ、紅茶を入れてく れるとは気の利いたモデルだ。有り難い。どうなることか と心配したぞ、ジタバタ踊りを始めた時は。」
 ユリカは思わず笑ってしまった。
 「あんな恥ずかしい思いをしたことないわ、あたし、ど うしちゃったのかしら、自分でも解らないわ。」
 見られるだけであの調子では、とても見せるところまで はいかないだろう、ユリカ?
 「あたし、みつめられると気が狂いそうだわ。立ってる だけでやっとだわ。衣服を剥ぎ取られてスッポンポンにさ れるより恥ずかしいわ、何だか、心に突き出てくるのよ、 コムプレックスが。昔玲維だった頃の面影が、パパの紙に 描き出されるんじゃないかって。心の中をそういうオブジ ェが徘徊しているもので。そのコムプレックスが爆発しち ゃったみたい。ワタシはまだ、確たる自分の心を持ってな いようだわ。」
 パパはウンウン頷いて、
 「対人恐怖症っていうんじゃないのか、そういうの。自 分の心を描かれるのがもの凄く恥ずかしい気がするんじゃ ないか?」
 ユリカの不安の内実を言い当てた。ユリカはハッとして パパの目を見て、そっと頷いた。
 「コムプレックスというものは、若いうちは気になって、 隠したくて仕方ないものだが、その陰で芸術性となって現 れる原動力の一要素でもあるんだ。それが多いということ は、芸術家向きだよ。個性というものは、そうして自己認 識されてゆくんだ。
 お前は、女になったばかりで、今までオトコとして過ご してきたということが、とても気になるんだろうが、受動 的な内面性を発達させる可能性があるぞ。そういうアーテ ィストになれるぞ、きっと、自分の心を自己分析してゆけ ばな、何かやるといい。
 昨日は、お前がファッションモデルになることを承知し たが、お前の能力には勿体なくてな、モデルというのは芸 術家じゃないし。メタ派手な世界で、アッという間に時間 を取られて、馬鹿になる。そして内向的なお前は落ちこぼ れるだろうと思えるので、違う道を行く方がいいと思うん だ。
 文学が向いていると思える、私の直感では。本をどんど ん読んで、日記を付けるとかすれば、書く才能が伸びると 思う、お前にはその能力が備わっているように思える。」
 ユリカは頷いた。
 「それでは、又始めよう。」
 「狂い候らえ!」(舞ってくれ。)
 ユリカはくるくると回転し、腕を上げたり下に広げたり、 上半身を斜めに曲げたり、バレリーナのようなポーズにな ったりした。パパはムーヴィーでその動作を撮していた。
 「よしよし、もういいよ、とても可愛いビデオが撮れた。 妖精のようだ。後はこれを基に、絵を描ける。ご苦労さん、 初めてで疲れただろう。」
 時計を見ると、もう十一時半だった。今日のお昼はスパ ゲッティー・ナポリタンだ。用意が出来たので、パパを呼 んだ。パパは冷蔵庫から黒ラベルを一本取りだして、二人 で飲みながら食事を始めた。


 「今は真昼で、光に満ちていて、物が良く見えるように 思うだろうが、ユリカ、実は光だけでは人間には物は見え ない、闇だけでも見えないが。光と闇がぶつかり、影が出 来ることによって視覚に形象が浮かび上がってくる。その ことにレオナルドは気がついていた。その影と陰を良く見 ないと輪郭は見えないということだ。
 現代の科学者は、光は波であり粒子であるから、複雑な 陰影が出来ると説明しているが、光と闇は友達であり、そ れが繊細に感受されるのが、輝くばかりに強烈だった昼の 光が、夜の闇に近づく夕暮れ時であることに、レオナルド は気がついていた。彼の絵には、夕暮れ時の物が多い。彼 はその時間帯を好んだが、物が良く見えたからだろう。
 純粋な光とか闇というものは存在しないらしい。光はプ リズムを通すと色になるが、光と闇の境目で色が発生する ことを発見したのは、文豪ゲーテなんだ。偉い奴だ。その 影も色だと、セザンヌは言っている、どんな目をしていた ことやら。
 夕方、薄暮時の庭に出てみよう、木々や草花と、光と影 が互いに溶け合って、柔らかく素敵に見えるよ。デッサン の勉強に一番いい頃だ。見る訓練にもなる。レオナルドも そう言っている。


 『いつもワタシは影を気にしていた。というよりはむし ろ、影の中にとりこめられて生きてきた気がする。社会に 受け入れられない人格と、許容され得る程度の人格の持ち 主だということの、複合変異を生きてきた結果の産物のよ うだ。精神的影の浮浪者のような気がしていた。
 しかし、内部に安らぐ影もあった。生まれてから小学生 だった間、ワタシの自然に則して女の子だった時代に培わ れた本能的な影、それは安らかな夢想として引き継がれ、 今まで発達している。ワタシには影は不可欠だった、いわ ば友達だった。つまり、自分の分身のようなものだった。』



 「光だけ、闇だけでは何も見えないように、希望だけで も未来は見えないようですね。欲求を望見する形象の心因 が無ければ。
 ワタシは、幽暗な闇が好きですけど、というのも薄暗が りの中で、瞼に様々な夢が浮かぶからですわ。ワタシはま だ暫く、その闇の中に留まっていたいような気がするんで す。性というものが、ワタシに密着する透明なヴェールに なるまで。
 今のワタシの顕せ身(うつせみ)はしっくりこないんで す、幽り身(かくりみ)も実感出来ません。
 ワタシには、まず自分の心の襞を解読する訓練が必要な ように思えてなりません。希望の翳りを見極めたいんです。 その果てに、現実の物を見る能力が芽を出すような気がし ますの。」
 パパは、何度も頷いていた。
 「まだ自分の内的精神の戸惑いの裡にいるようだが、お 前ならすぐ解読出来るだろう、心のもやもやを。自信を持 つといい、自分は美しい、鑑賞される価値があると。そう 思えば心も軽くなる。
 唯思い澱んでいる状態に心を閉じ込めておいてはいかん、 開くよう努力しなくてはな、何か本を読むとかして、昇華 しなくてはいけない。心眼とかサイキック・ライト(霊光) に目覚めるよう心がけるといい。
 お前の過去の、ペルソナの贋の覆いからの、そして無 意識的カオスに転がる諸心象の暗示から、自我を解放する ことが必要だろう。それにはヌース(英知)が必要だがな。」
 「ワタシは、いわば性のアポクリュフォーン(経典外の) ですから、自ずとワタシのエンテュメーシス(探求の意図) は、自身の両性具有性を媒介にして、性の諸領野を見透す ということになるのが運命のような気がします。それはワ タシにとって、個人的内密性の現象学を開示することでも あるのです。
 外面的伴侶たるシゲー(沈黙)、内面的エンノイア(思 念)、それらが揃って性の思惟は、パトス(不安定な意志) や、性のビュトス(深淵)を乗り越えて行こうとする意志 となるのです。その詳細な構造、細密に縫い込まれた意識 などを描き出したいのです。
 今までのワタシのスーユ(識域)は、不在と非在と幻想 に集約されていましたが、これからそれらを解きほぐした いと思います。
 夢の影の谷深く馬を駆れ、穏やかに眠れる今日の日々に!」
 ユリカは、顎をこくんと引いて、格好をつけて喋り終え た。
 「なかなか格調高いな、お前、さすが西洋文学者の家に 育っただけのことはある、どんどん磨くといい、樹希より 文学的かも知れんぞ。」
 パパはびっくりしたようにユリカを見やってそう言った。
 「散歩に行ってきていいですか?」
 「おお、いいとも、一日中ワタシの相手では疲れるだろ う。ワタシもどこかに出かけるから、玄関の鍵を一つお前 に渡しておこう。
 「イッヒ ハーベ カイン ゲルト。」(私、お金持っていないんです。)
 ユリカはもじもじと、恥ずかしそうに言った。
 「ああ、そうだった、忘れとった、一ヶ月これくらいで いいかな。」
 パパは予めお金を入れてある封筒を持ってきて、鍵と一 緒に手渡した。
 「有り難う、パパ、気前がいいのね!」
 ユリカは中も見ずにハンドバックに大事そうにしまい込 んでにっこりした。一心地ついた気がした。実際ユリカは 無一文だったのだ。預金通帳すら持っていない。里中家を、 無一文で追い出されたのだ。
 ユリカは、池袋まで行くべく駅へ行った。階段で若い男 にスカートを捲られたが、振り向かずにお辞儀して昇った。 内心嬉しいわと思った。「有り難う」と心で呟いたほどだ。 公衆の面前でスカートを捲るというのは、男にとって、男 の性欲という貞操を破られることではないかしらと思え、 おかしかった。男を犯したような気がした。
 一方、自分の女の自尊心が、公衆の面前で鑑賞されたと 思うと、スカートの裾と共に軽やかに、晴れ晴れと歓喜の うちに舞い上がり、一段とグレードアップしたように感じ られた。この一瞬のエロスの共犯者に感謝した。
 捲られる、捲らせる、覗かれる、覗かせる、これらは女 が握っているエロスのキーボードだ。それは症状ではなく、 正常なる女の欲望である。露出狂ではない。でも、フレア ーのミニスカの下に、一枚四千円もする艶めかしいズロー スを穿いているのよ。階段を昇る時、どんなに心がときめ くか、解って欲しいと思った。
 若者の熱い視線を吸い込んで、ユリカのお尻は日向ぼっ こする想いがした。心まで温まるようだった。毎日この気 分を味わいたいと思った。こぞってユリカのスカートを捲 りに、階段の位置争いを若者がする様が、ことの他楽しか った。
 ユリカは、池袋の自動車教習所に通うことにした。その 手続きを済ませ、西口の大きな書店を見つけ、本を一冊買 って、八階の喫茶店でアメリカンを飲みながら考えた。


 若き日の、青き望みは達せられた。ワタシはオンナとし て自覚出来るようになった。溶解出来る世界が少し広がっ た。しかし、まだ、冷めた心で歩けば影も冷たい。リズム は、冬の石(ラピス)に翳る芯音だった。しかし、うす衣 を纏って昏れなずむ憂愁の中に一人いると、昔、春の 夕 べに溶け込んだ記憶が蘇ってくる。祈りの密やかな爽やか さのうちにいるようだった。
 美人だという自覚、或いはその症候群(シンドローム)、 それが今のところ、ユリカを支えている実体だ。
 子供を産めない女には鉱物幻想が似合う。石への執着、 ユリカの女王宮跡の産み出す波紋、それは彼女の優雅さ (スプレッシアトゥーラ)の原形質。体内に化石化した子 宮の墓を宿す、水晶宮の女主人(レギーナ)、永遠のプル クラ(乙女)のままレギーナになった人物。氷石期時代に 瞑れる(ねむれる)子孫を遺す夢。この凍った想いこそ溶 けて欲しい。そうすれば、心身共に本当の麗人だ。
 性は、時には岸辺に打ち寄せられては消える神秘的な畔 に、時には人間の心の測り知れない深淵に似ている。眠れ る意識のせせらぎに流れる夢の花、澱みなく浮かび上がる 無意識の性。
 それらが精霊でなくて何だろう。時々意識に昇ってくる ファンタスマ(幻覚)、その時の喜びよう、それはただ事 ではない。精霊に報いを捧げるべき時だ。瞬間の開花した 薫り漂う意識の愉悦に陶酔出来る。
 無意識の陰で、密かに閃く官能の眠れる春の風に吹かれ て目を醒ましたい。今日こそは、素晴らしい白日夢を物に したい。明日こそは心地いいそよ風に吹かれたい。より一 層女らしく目覚めよう。春の女神、クローリスに想いを寄 せよう。
 確かに待っている筈の現在のワタシに追いつけない自分 がいる。こんな不思議な存在を何と呼んだらいいのか。時 いまだ面貌を定めずといったところだ。時の魔法に身を任 せて、現実の生活に入ってみよう。


 ユリカは、デパートで夕飯の材料を買って、又電車の階 段を昇った。ワタシの衣服は、捲られるために着ているの ではなく、美しい官能美を誇るためのもので、その意味で は、ジェンダー・ボンデイジ・ファッションだと思った。 しかし、若い男の性欲をかき立てるファッションでもある ようだった。  





N E X T
・アンドロギュヌスの肖像 U・ ∴目次
 1章 ∴  2章 ∴  3章 ∴
 4章 ∴





井野博美『短編小説集』TOP
∴PageTop∴

produced by yuniyuni