両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第三章  仮面の面影   -6-  性からの脱落


 ユリカにとって、早田の性は、取り組むべきオブジェの ような気がした。カレ=カノジョは、両性具有者になって しまった。昔ユリカが苛まれた、不安定な性座に陥ってし まった。
 アンドロギュヌスとヘルマフロジチが共同生活を営んで いるとは、世界広しといえども、滅多にあることではない。 この奇妙な性意識は、どこまで二人を連れてゆくのだろう かと、ユリカは考えあぐねた。
 早田の外面は女になってしまった、ほとんど完璧に。早 田の本心は、どこまで女性化したいのだろうかと、訝しい。 ユリカ相手に、自分を女性化しようとしていることは確か だ。振る舞いも淑やかで、今では目つきさえ女らしい。で もまだ、言葉使いまでは及んでいないが、喋る挙措は女っ ぽい。
 最早、早田は両性性を身につける以外に生きる道はない ようだ。本物の女になれないのであれば、そうするしかな い。唯、男としての機質的損傷から立ち直って欲しいと願 うだけだ。
 ユリカのように、子宮を摘ってしまった後、子宮の再生 を望むよりか、まだついている男の一物の恢復を期待する 方が、可能性は大きいように思える。今からはそれを期待 しようと、ユリカは思った。
 早田は、約束通り、飲む薬の量を減らしていった。そし て、四月から大学に通いだした。そんな四月の半ば、ユリ カは早田の日記帳を覗いてみた。


 『ワタシは、自分に与えられた性を引き受けきれない。 生まれついて持ち合わせた性別を否定することに、人間は 罪咎の意識を抱くだろうか? ワタシには不安があるが。
 というのも、ワタシの肉体が自分自身でないように感じ る時が、最近多いからだ。ワタシにとって、今の肉体は対 象物のようだ。昔望んだ形象だ。その昔から見ると、今の 肉体は過去から離体化されたもののようだ。断絶があるの だ。
 しかし、魂までは、その外面に着いて行けなかったかの 観がある。自己の外面を見つめる自身が不安に戦いている。 過去に取り残された自己が、前進することを躊躇っている。
 結論はいつも同じだ。ワタシは女にはなれない。しかし、 女体化しないではいられない。その望みは達成されたが、 充足できない何かがある。性的衝動の対象を変化させよう と、初めのうち努力していたが、不可能だという感じがす るのが切ない。心情まで女性化したいのだが。
 それ故に、女になりたかった衝動と、そうはなれずに留 まった意識の間に断絶があるのだ。それが悲哀を産み出し た。ワタシは寂しい、心と肉体が一体化しないために。そ んなワタシの外面と心の不一致を、何者かが察している。
 ボクは類の中で孤独だ。これは、症状でもないし疾患で もない。現実の感覚だ。ボクはアタシの形姿を手に取って 見つめる。ワタシはこの肉体から逃れられない。ワタシの 実体になってしまったこの矛盾を引き受けきれない。自己 から逃れる術はない。ワタシは性的に異常者である、少数 者であると、何者かが囁く。
 ワタシは、自己から逃れようとする自分を憎んでいる。 又、自分を逃さない自己を憎んでいる。ワタシの自己矛盾、 ワタシの憎悪と孤独。苦しみに対応せよ、憎悪に対応せよ。 そのように囁くワタシはどこにいるのだろう。
 その苦しみがワタシの前に据えられる。ワタシは自己の 本質を手に取って見つめる。何と情れないワタシなのだろ う。しかし自己は分離された。この囁きに耳を貸す間、ワ タシは自己とは違っていられる。
 しかし束の間、ワタシの自己はワタシの目を開かせる。 自己の肉体を肯定せよ、甘んじよではない、諦めよではな い。ワタシの苦しみはワタシの存在から離れることはない。 苦しみがワタシを生きているかの観がある。そういう肉体 になってしまった。
 ワタシは、オトコとオンナの二元性から呪われ出た人間 だ。しかし、一個の直接性である、又、全体性である。男 にならない人間、女にならない人間。アタシは自己の王国 ではない。カノジョはカレの地獄でもない。
 カレは男ではなく、カノジョは女ではない。一人称と三 人称の区別が、他の人と別に存在する。ワタシをカレとカ ノジョと見なすこともあれば、カレやカノジョがワタシの ことを指す場合もある。それ故、ユリカが言うような、カ タコトの人称なのだ。
 カノジョもカレも、自分に違和感を抱き続けてきた。カ ノジョにとってカレは、ほんの時たま訪れるにもかかわら ず、常に意識野を構成するものだった。ワタシはその性に 釘付けにされている。
 最早二度と、この絡み合いから脱し得ないのだ。男女を 一つの肉体に取り込んでいるが、一方、どちらにもなれな いという不安に戦いている。
 自分は、自分自身であると同時に、自分でないものであ る。そしてそれは、ワタシの理想像でもない。どこまでも 女のように見える姿形に過ぎない。そのようにワタシは、 自分の外見を偽装している。』



 四月下旬、早田は国文科の課長に呼びたてを喰らった。
 「君は男かね、女かね?」
 おっとり刀で教授はそう尋ねた。
 「どちらでもありませんの、あたし。」
 早田は、薄化粧の青白色のパンケーキの頬を尚一層蒼白 にして、やっとの思いでそう応えた。
 「佳織(よしお)君、君には子供が一人いるね、君は父 親だろう?」
 「『かおり』と言います、私の名前は。」
 「そうか、しかし君は男として助手に採用されることに 決まったんだ、それだけは弁えといてくれないかね、でき るか?」
 「できません!」
 「何だと、もう一度言ってみろ。」
 「できません!」
 「お前が大学院に入った頃は、まだ男っぽかったのに、 どうしたんだ、お前、四年間で女になってしまったじゃな いか、性転換手術でも受けたのか?」
 「いえ、自然にこうなったんです。」
 「ほう、お前、半陰陽か?」
 「今ではそのようですわ。」
 そう応える早田の目を、課長がじろりと見やった。その 一瞥に早田が柔らかく微笑んだから堪らない。
 「何だその微笑みは、相手を弁えろ、たわけ、それとも 俺に言い寄るつもりか、よしてくれ。
 半陰陽とは知らなかった、そうと分かれば君の扱い方も 変わってくる、自ずとな。」
 課長は顎をギクシャクさせながらそう言った。早田は一 安心した。
 「二十代から兆候が歴然としてくるんです、私のような 躰の人間は。」
 勝手ないいわけをした。
 「ほう、じゃあ、女として通すかね?」
 「さあ、どうしましょう。」
 「その躰じゃあ、男の服装はできないだろう、性別変更 の手続きをしたらどうかね。」
 「それはできません、私には愛する女性がいるんです。」
 「ほう、例の若宮ユリカさんかね。」
 早田は頷いた。
 「そうか、仕方ない。では他の男と性的関係を持たない でくれたまえよ、くれぐれもな、我が課の名誉に関わるか らな。」
 「はい、絶対そんなことはしません。」
 「そうか、教授会にはそう報告しておく。もういい、帰 りたまえ。」
 早田は女物の靴の踵をカタコト鳴らして、逃げるように 部屋から出て行った。
 「あの雌猫、これからどうなることやら。彼奴の父親と 顔見知りだから採ってやったが、半陰陽だとは知らなかっ た。うまく立ち回れるか、暫く様子を見てやろう。女性の 方が多い文学部で、生き延びられるかどうか、危ういな。
 彼奴の躰、まるで『天使と人間』(Engelund Kreatur)みたいだ。両性人間の裏面は性の喪失か、彼 奴の場合は、華やいだ虚無だな、可哀想に。」
 課長はそうひとり言を言って椅子に凭れこんだ。
 次の日から早田は、今までにもまして女っぽくめかして 行くようになった、香水までプンプンと香らせて。
 しかし、自他共に、女体であると公認されてしまうと、 女の躰を目標にすることもなくなってゆく。女からも男か らも浮き上がってしまったということを、再確認させられ た。達成されたと同時に失ったような感覚だった。得られ たのは空虚な意識だった。
 幻想のような性の持ち主になってしまった。女の性生理 のないユリカと、男の性生理のない早田と、奇妙な組み合 わせになってしまった。しかしユリカには、性器的快楽が ある。自分にはない。この器質的損傷にどこまで耐えられ るものかと、内心不安でならない。
 女の裸体や下着姿を見ても、男らしい反応は何一つ起き ない。男根は小指ほどの長さと太さに萎縮している。衣服 に対しては、男が着ているスーツやネクタイに感じ良さを 覚えることが最近多い。自分が着るのは女物にしか目が向 かないのだが。
 裸体に対しても、女のプヨプヨと柔らかいむちむちした 表面に嫌気が差すことが多い。すんなりした肌触りには心 惹かれるが。それ以上に男の裸体にゾクゾクする。自分の 裸体には納得がいかないのだが。ユリカのように引き締ま ったボディーが好きだ。
 何を支えに生きてゆけばいいのかと、不安だ。ユリカの 半陰陽性が羨ましかった昔、今はもっと羨ましい。自分に あるのは、空虚な、得体の知れぬ不安な満足感だ。





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