両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第四章  奇蹟への道   -1-  危険なゲシュタルト


 早田が若宮家を出て一ヶ月が過ぎた。彼との共同生活は、 痛みのある青春の棘のように感じられた。その棘が躰中に 引っ掻き傷(トラウマ)を残し、忘れ難い追憶の悲哀とな って、胸の奥深くに沈殿していることが、今も確かに感じ られる。
 自分の過去が早田の現在であるなら、早田を見る時、自 分の過去の面影が映るのは当然のことだ。早田はユリカに とって、過去の時空を呼び寄せる、又、死せる過去を呼び 覚ます仮面である。生ける憑依霊である。
 それ故、彼と対話する時、自分の過去に話しかけている のも同然だった。正に生き神様ではないかと思える。神座 を設けて早田を祀りたい気分だ。
 去年の夏、西片と訳した、ピオッフォニールの「仮面の 現象学」にも書かれていたが、日本の神楽のように、神を 招き寄せ、交流し、そして神の国に送り返すという、仮面 の持つ可能性の極限にまで高められた形式には、ヨーロッ パの仮面は進歩しなかった。
 それに謡いと動きと音楽を加えて、劇的にまで高めたの が能楽である。仮面の効能を研究するなら、能をよく研究 するのがいいのだ。ユリカもまだ仮面に興味がある。早田 と一緒に謡曲を研究したいと思った。いや、それ以上に、 自分達自身を分析することにより、より深く、仮面の機能 を知ることができるように思える。
 そして、自分と早田の胸の裡のモヤモヤを解きほぐせる ような気がする。自分にとって、早田は大事な人物だ。二 人の間で醸成された香り高い芸術を、何とか完成したい。 早田もそれ抜きに、コムプレックスから脱却出来ないよう に思える。
 今までは、互いの望みを適え合い、互いの傷を舐めあっ てきただけだ、不幸を分かち合ってきた。それらの行為が、 新たな罪跡感を産み出すとも知らずに。
 しかし今突然のごとくに、二人の間に形造るべき新しい 道標が、ユリカには見える。「仮面の現象学」を訳した賜 物のようだ。その点、西片には感謝しているが、西片相手 では、自分は永遠に昔の仮面を被っていなければならない。 仮面を被る意識を分かち合えない。
 ユリカには、仮面を被っていたという過去の現実と、早 田には、仮面を被らねば生きていけないという現実がある。 これらは、二人の関係性の中で形成されたものだ。それら の仮面が最早剥げ得ないものであるならば、より完成度の 高いものにする以外に、歩む道はないではないか。
 これは二人だけの間で、秘密の裡に形成されてきたもの なので、この真実の道標に他人が気付く筈がない。早田が 謡曲を研究し始めたのも、この辺りの心理を予感したため なのだろう。それを助成してあげたいとユリカは思った。


                                        早田は独立しようとしているが、それは、普通の人間が 男として自立しようというのとは違い、母性像を模しての ことだ。そのことに早田の父親は気が付かない。今の早田 には、保護者は確かに必要だが、彼の父親がその役をこな せるかどうか、あのゴリラのような性感覚の持ち主では難 しい。
 早田のコムプレックスは肥大化する一方だろうと推察さ れる。その上歪むだろう。現実の男女世界から身を退いて いる彼に、高圧的に男に戻れと、頭ごなしに言われても、 自我は曲がるだけだろう。
 そのデリカシーにあの雄ゴリラは気が付くまい。早田は 石化するか離人症に罹るに違いない。そのものの哀れに気 がつくまい。ゴリラの愛情は、人間には凶器だ。
 あのゴリラは、カフカを専門にしている教授だが、現実 の変身を目の当たりにして、柔和なセンスィビリティーを 示し得るかどうか、はなはだ疑問だ。さいころの目は兇と 出るに違いない。
 そしてあの、オロオロするばかりの母親の監視の下で、 いったい早田は、培ってきた女性性を発現し得るだろうか、 どう見ても早田にとっては、いい環境とは言えない。危険 なだけだ。
 早田のあの受動的な繊細さは、いかにしてあの高圧的な 両親の下で芽生えたのか、全く不思議だ。繊細さに縁の無 い両親の間に生まれ落ちた不審な子、突然変異とでも呼ぶ べき図柄だ。拒否反応ではない反応不可能を起こすことは 間違いない。
 感性の断絶は目に見えている。両親は益々居丈高に、早 田はいよいよ萎縮するに違いない。それに耐えかねれば分 裂症に罹る可能性が高い。そんな関係は壊さなくてはと、 ユリカは焦燥気味に考えた。
 早田は、自分は何者でもないと感じるに違いない、あの 親子関係の中では。まだ早田の子供は幼稚園だ、父親の心 理を察することは無理だ。孤立無援だ。遠い存在になろう としているが、これではいけない、何か出来ないだろうか。 カレがカレらしく生きて行けるように、援助したい。
 カレの両親は、カレのペルソナに許可を下ろさないだろ う。そしたらいずれ発病するだろう。発病してもカレの二 親は、自分達のせいだとは気が付くまい。他人のせいにす るだろう。その倒錯に気付くまい、旧人類ゴリラは。
 悲劇の幕が切って落とされようとしている。あたしはそ の観客じゃないわ、当事者だわと思わずにはいられない。 カレに会いたいと、ユリカは強く望んだ。


                                        7月の終わり頃、ユリカが池袋まで買い物に出かけた帰 りの電車で、乗客が駅に着くごとに降りて空いてきたら、 同じ車両に早田が立っていることに気が付いた。偶然の善 意のような気がして、ユリカはカレの隣に割り込んだ。
 もう真夏で、早田はブルーのフレンチスリーヴのワンピ ース姿で、純金のネックレスを吊していた。爪には黒いマ ニキュア。勿論お化粧している。まだ昔のカレだわと、一 安心した。
 「久しぶりねえ、早田サン、お子さんお元気?」
 早速ユリカは声をかけた。すると早田は、まるで赤の他 人のような顔付きで、まじまじとユリカを見つめている。 そして一こと言った。
 「バリヤーが利かない。」
 何のことだろうとユリカは考えた。人との間に障壁を立 てられないのだろうか、それとも人と距離を保てないのだ ろうか。おかしなことを言うわと思った。あんなに心を宥 し合ったのだから、バリヤーは自然に生じている筈なのに、 おかしい。
 ショットキー・バリアー・ダイオードなら知っているけ ど、別の意味らしい。何かに変調をきたしているのは事実 だ。
 「あたしは元のままよ。」
 と、カレの心を探るように言った。
 「あなたはそうかも知れないけど、アタシにはそうは見 えないの、唯、アタシの周りに浮遊している誰でもない人 のように見えるの。でも、知り合いだったということは、 不透明な何かのように覚えているわ。それだけでも嬉しい わ、ちょっときついんだけど。
 今子は何とか平穏に暮らしているわ。アタシを理解して くれているみたい。それが唯一の楽しみ。爺婆には困って いる、子供も懐かない。娘は貴女に会いたがっている、ま るでママのように慕っている。
 娘との間には、普通のバリアーが働いているので、わけ 合い合いの中だけど、爺婆には障壁を立てて付き合わない わ。
 「アナタ、しっかりして、あたしを忘れないで、、、」
 そこで降りる駅に停まったので、二人は降りて、ユリカ はカレを喫茶店に引っ張って行った。ユリカはその時初め て母性愛とは別の愛を感じた。
 「丁度いい機会だから、お子さんも呼びましょうよ。」
 虚ろな目つきで腰を降ろしていた早田が、機械人形のよ うに頷き、電話をしに席を立った。
 七分後に今子ちゃんが飛んできた。
 「ママ!」
 と、ユリカの頬に顔を擦り寄せた。ユリカは思わず涙を 流した。
 「少し大きくなったわね。」
 「うん、三センチも伸びたわ。」
 今子ちゃんが嬉しそうに言う。その二人を、早田が虚ろ な目つきで眺めている。まるで他人の子とその母親を見て いるかの顔で。ユリカは今子ちゃんにフルーツパフェを注 文した。自分達はアイス珈琲だ。
 子供とユリカをぼんやり見ていた早田が、目を瞑ると椅 子に凭れた。気分が良くないように見えた。或いはユリカ と久しぶりに会ったせいで、何らかの安心感で、気がスー ッと抜けたのか。
 数分でカレは目を開いた。するとその目が生き生きして いた。別人のようだった。別れる前のカレの目だった。
 確かに心身の失調をきたしているが、まだ立ち直れそう だ。狂気になる萌芽は認められるが、子供とユリカが楽し そうに話しているのを見ているうちに、カレの目つきが変 わった。正気に戻った。
 早田を再び自分の家に住まわせたいと、その時ユリカは 思った。それ以外にカレを立ち直らせる方法はない。あの 両親の下では、このまま廃人になり果てるように思える。 あまりに危険なゲシュタルトだ。
 今のままでは、西片の言うような、仮面を剥いだら何も ない人間になってしまう。仮面を剥いだら、男の性生理が ある人間であって欲しいのだ。ユリカは、女の性生理が欲 しいのだ。
 ここに共通項がある。早田の男の性欲をもよおさせねば ならない。それには、ユリカのようなまだ若い女が必要な のだ。
 店を出、途中まで一緒に歩き、別れた。今子ちゃんはユ リカと離れるのが寂しそうだった。あの娘は自分に懐いて いると、はっきり実感できた。





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 4章 ∴





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