両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第四章  奇蹟への道   -5-  性的脱偶像崇拝


 一ヶ月後、ユリカの生理もあり、ほっとした。二十八日 周期のようだ。「日経ウーマン」に「日経ウンチマン」と か、「月経ウーマン」に「月経サラリーマン」だなどと、 二人は笑える軽口を叩けることを喜んだ。女としての充実 感は日に日に増していった。
 そして早田と今子ちゃんは、再び若宮家の住人になった。 今子ちゃんは、ユリカのことを慕っているので、ユリカも 嬉しかった。
 結婚式の日取りは、年の瀬の月曜日と決まった。その日 しか空いていなかったので。友人のいない二人は、身内だ け呼んで、秘めやかな宴席を催すことにした、池袋のとあ る料亭で。
 早田の性生理が復活するまで、三日に一度ずつ、特訓が 重ねられた。早田の意識の脱ジェンダー化も併せ、進んで いた。
 男の性生理があるのに男でないとは、女の精神性を取り 込むということに他ならない。それは実際問題として、自 然にそうなる男は結構いる。早田もその一人だ。女性とい うマスクが性に合うのだ。それでいて、女性のジェンダー からも外れている。勿論男のジェンダーからも。男と女の 外面と、ジェンダレスな内面ということだ。
 昔ユリカは、オトコというマスクを被ってきた、オトコ という仮象を押しつけられて。しかし、それはいつも外面 的姿形であり、内面は常に女が充填されていた。外面は無 口で固く冷たく、内面は柔弱さに華やいでいた。心はいつ も内面に向かっていた。
 早田は、他人に対して男として接することができない人 間だ。どうしてこういう人間ができあがるかについて、疑 問の余地は大きいが、ユリカにとっては取っつき易い存在 で、カレの女性化願望を育み、訓練したのは事実で、いつ の間にか早田はオンナ色に染まってしまった。
 しかし、これ以上の女性化は肉体的に不可能な状態まで 来た。ストップをかえるべき段階まで来た。ここで早田の 精神は、オンナに成り切れぬ自己を悟ったのだ。そういう 自己は、性から離脱しているのだ。逸脱しているのではな い。その現実が何とも寂しい。
 早田の性生理が恢復すれば、症状は消える。疾患でもな い。一つの現実であり、現象である。唯、通常人には奇異 に感じられる事象である。そういう実体である。仮面を剥 いだら、そういう実体が見える。
 早田は、男という性から逃避したのではない。女という 性になることを求め、外見をそうした。心は幼少の折りか ら女だった。しかし、男性性を否定できたわけではない。 性というものは、簡単には否定できないものだ。
 現在の早田は、女性性を否定したわけではないが、男性 性に染まったわけでも更にない。両方とも少しずつ否定し ている存在だ。
 通常の男性とも女性とも違う性に落ち着いたのだ。一般 の性から離脱したのだ。否定したのではなく、離脱したの だ。そういう男を s h e m a l e と呼ぶ。それは性の喪失で はない。
 その美しき外見を求め、手に入れたのだ。自分の心に浮 かぶ自分の外見を実現しようというのは、大いに結構なこ とだとユリカは思う。
 現実にこうして、生まれついての性別を超えて、早田は 生きている。性という偶像の呪いのマスクの眼差しから逃 れて、縛られることなく、自由に生きている。
 男らしくないオトコとして生きてきたユリカにとって、 早田のような人間はちっとも奇異ではない。受け容れられ る肉体であり、精神性である。女になったばかりのユリカ にとって、最も取っつき易い人物である。
 早田は乳房も膨らみ、外見は女性のように装っているし、 女性的であるが、生物学的に父親であることも事実だ。
 父性とか母性というものは、子供を持った瞬間から、子 供に対して働くということに端を発するものであり、生物 学的には、単なる男女の性別の合体の産物に対する、それ ぞれの性差の誇示に過ぎぬべきものである。そして性差と いうものは、意識的に乗り越え可能なものである。
 勿論、基督教的な父性性とか母性性という、倫理的概念 を無視してのことだが。それらは偶像そのもの故。
 洋の東西を問わず、父とか母とかいう概念は、強弱の差 はあれど、無意識のうちにと言っていいほど、性に対する 偶像として君臨している。ほとんどの人間は、生まれなが らにして性の偶像崇拝者である。
 子供達は当然のごとく、どちらかの性に組み込まれ、無 意識的に自己を、父母目差して自ら訓育する。それを暗黙 の了解事項として振る舞うのが普通である。
 しかし、醒めた目で見るなら、父性とか母性というもの は、性の両性世界に睨みを効かすマスクに過ぎない。ほと んどの人間は、その眼差しの呪縛の虜になっているのだと いうことに気付かない。仮面を剥いだら、自分が何者であ るか知らない人間がほとんどである。
 しかし現実社会には、父や母になれない男や女は大勢い るのだ。それらの人々を普通の人間は、可哀想にという観 念で見るものだ。不幸なる、不運なる人々というカテゴリ ーで見られる。果たしてそれだけであろうか?
 現実的にはもっと惨めな想いをさせられるのだ。現実社 会では、子供を産めない女性は白眼視される。カステラー ト(去勢された男)を創り出すことを否としない人間が、 不妊の女性に対しては差別的態度を取る。それは、悪魔の 一種のごときものと思われるのだ。つまり、人間とは別だ という風に。
 魔女の有資格者とみなされる。吸血鬼並に疎まれ、蔑ま れる。恰も社会の敵のごとき扱いを受ける。か弱い者をそ れ以上に乏しめねば気が済まないのは、世の常とはいえ、 愚かしい限りである。
 ユリカはそういう社会で、不妊=石娘として、魔女的存 在としての肉体に、自他共に苛まれてきたが、それから釈 放された、幸運にも。その過程で、一般社会の性という概 念がいかにいい加減なものかということに気付いていた。 子供を産めなくても、情操豊かな女性は多い、深い翳りも 合わせ持っているが、男も然りである。
 早田は弱い男である、心身共に。そのカレから射精能力 が失われたら、カステラート並だ。カステラートは、小さ い時に去勢されるので、性生理もオルガスムも知らないか ら生きていられるが、早田は男のオルガスムを経験し、子 供まで作っているのだ。
 それが射精不能になったら、精神に異常を来すことは間 違いない。そうなりかけている。生きていられるかどうか 解らない。性転換者に、自殺する人は多いと言われている。 その原因は、オルガスムの欠落に耐え難いからだという。
 幸い早田は、オルガスムには何とか達する。しかし精液 はまだ出ない。それは不安ではないだろうか、機能が十全 に作用しないというのは。この機質的損傷が恢復すれば、 カレは何とか生きて行けるだろう。
 女のシンボルのような、ジェンダーボンデイジファッシ ョンで身を包むのは許容しよう。しかし、男としての性生 理を恢復して欲しい。早田もそれは心中望んでいる筈だ。 ユリカもそれを待ち望んでいる。カレの子供を産みたい。 早田もユリカを愛しているのだから、その果実を望むのは 二人とも同じだ。
 その果実に対して、しかし、通常人のようなイメージを 与えたくないと、ユリカは思う。父性、母性という偶像性 を示したくないと思った。
 偶像崇拝を禁じている基督教社会にあっても、父性とか 母性というのは偶像である。そのことにほとんどのクリス チャンは気付いていない。それどころか、この偶像を絶対 視していると言っても過言ではない。それに基づいて社会 を構成しているのだ。
 クリスチャンであるユリカは、そのことで矛盾を感じて いる。しかし、より徹底したクリスチャンになるのだとい う意気込みでいる。偶像崇拝の否定という点で、ユリカが 学生時代、アナーキズムに心惹かれたということは、かな り因縁があるように思える。
 その反省的意識から、どのように子供に接するべきか模 索しなければと思っている。そして、夫婦関係もどうある べきか、熟考しなければと。
 自分達の子供を自分達で育てるのは当たり前だが、そこ に派生する愛らしさとか尊敬の念というものが、偶像へと 変化しないようにするべきだと。
 早田に対する、性的特訓のお陰でか、ファーロスはかな り大きくなってきている。オルガスムも力強くなった。も う少しで射精可能になるように感じられた。十一月の終わ り頃には。
 早田はぐんぐん明るくなっていった。しかし外面は、い よいよ女っぽくなってゆくようだった。それは許容すべき ペルソナのように思えた。
 肉体的性を一度は超越した者同士、仲良く暮らして行け るように思えた。ヘルマフロディトスとアンドロギュヌス の間に子供が産まれたら、幸せな奇蹟だ。その奇蹟目差し て頑張ろうと、二人は心を新たにした。
 性意識というものは、少なからぬ人間にあって、幼少の 折りより倒錯すうるようだ。生まれついての性別を超越す る人間はいるものだ。ユリカも早田もそうした人生を歩ん できた。
 罪の意識はあるにはあったが、それは保守的現実社会の 一般の人々の間で形成される、妄執的規範に照らされる時 に感じるものだと、二人とも知っていた。
 それを捨て去るには、この社会から疎外されるというハ ンディーを乗り越えなくてはならないという勇気も要求さ れるが、欲求の方が勝るようだ。個人主義が根付きつつあ る現代では、可能なことだ。
 男や女という偶像から解放されて生きるべきであると、 ユリカは思った。早田もそれを実践している、助けてあげ たい。早田のそういうマスクを大事にしてあげたいと思っ た。
 ユリカも昔、ヴィヴィッドな性を模して生きてきたが、 今や、その生き生きした性生理のある人間になっている。 これ以上十全なる娘を目差すことはないところまで来た。 目標は願いと共に達成された。後は子供が欲しい。
 早田の美しくありたいという欲求的幻覚を、美しく飾り 立ててあげたいと思った。自身がその模像であるなら、自 身もより美しくなりたいと願った。早田が模していたのが、 過去の現在性だったユリカの姿であるなら、これからは、 自分の現在の現在性を模して貰いたいと願った。
 こうして自分の過去というものが、早田の変貌を媒介に して昇華されていくような気がする。早田も又、自身の幻 覚の源であるユリカを自らの手にすることにより、模像と しての自己の身体に生気を吹き込むことができるだろう。
 ユリカの過去の願いの大きな部分は適えられた。早田の 過去の欲求も、具体的な形象となって、自分自身に投影さ れ、衝動の対象を手に入れ、充足してゆくのだろう。確か に二人は変貌もし、進歩したようだ。香り高い樹精へと変 身した。
 しかし、母親になったとしても、普通の家庭の主婦のよ うには、子供に自身を母性という偶像としては見られたく はないと思った。それでいて、赤ちゃんは親がいなくては 育たないという現実は認めなくてはならない。
 親の責任は重いのだ。子供を育てるのは、両親の手に託 すのが妥当であるということは、覆い隠すべくもない現実 である。偶像視させぬように配慮しつつ、育てねばならな い。子供に、自らのペルソナを身に着けさせるべく。
 父親が女装していても、さしたる問題ではないようだ。 今子ちゃんも別段不審には感じないというか、慣れてしま っているようだ。両親がいるということの方が肝心なこと のようだ。
 父性も母性も、偶像としてではなく育まれてゆく可能性 を、二人は実感した。母乳を授けられるのは女性だが、そ れが即偶像となるわけではないように思える。
 過去を清算したユリカには、新しい時空が待っている。 中でも、早田とのエロスの交流が待たれている。それを実 現できれば、二人の過去は一層の高みへと羽ばたくだろう。
 早田の両親は引っ越して行った。息子のペルソナに許可 を降ろして。それを育むことの妥当性に気付いて、干渉す るのは止めようと決心して。
 十二月の初めに西片が、どうしてもユリカに会いたいと 言って訪れたが、パパに門前払いにして貰った。





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 4章 ∴





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