両性具有文学
・井野博美・

  アンドロギュヌスの肖像U 性的偶像崇拝からの解脱


     第二章  北海道にて   -1-  阿寒湖畔


 ユリカは、十月の半ばに、車の免許を取得した。それで、 FSXでドライヴする楽しみを満喫した。エンジンが車体 の中央にあるので、ミッドシップと呼ばれる。いろいろ都 心まで出たり、六本木や渋谷や表参道など、若い男女が集 まる辺りも通ったが、その辺で車を降りようとは思わなか った。ゴミゴミしているし、若い男女は話になりそうにな かったので。
 パパは十二月の初めから十日間、銀座の画廊、カタルー シスを借りて、恒例の個展を開いた。ユリカは、画壇の有 名人の接待で忙しかった。下着姿の自分の絵が十点も展示 されているので、恥じらいを感じつつ、勿論ワンピース姿 のも七点あったが、ランジェリー姿のから売れてゆくので、 びっくりさせられた。それも八号ぐらいの小さな絵でも、 一点八十万円以上なのだ。十日間で、合計三十二点全部が さばけた。ユリカは、ニュムペー(小妖精)と題されて、 パパの絵でデビューした。
 一番高価な、三千万円の油絵も売れた。パパは、個展以 外でも画商を通じて、定期的に絵を売っており、年間の総 売上は一億五千万円を超える、中堅の画家だ。
 画廊に展示する前の晩は、ディスプレイするので大忙し だったが、最終日は全作品売れたこともあり、祝杯を関係 者であげた。画廊の係員の手で、買い取り主先に配達する 手配がなされた。パパは、個展を見に来てくれた著名人や 関係者に挨拶状を書くのを急いでいた。
 個展の期間中、パパが居合わせた時に訪れた関係者は、 口を揃えて、素晴らしいモデルを掴まえましたねと、ユリ カを褒めるので、ユリカはすっかり赤くなってしまった。 パパがこんなにたくさん自分の絵を描いていたとは知らな かったし。
 パパは、毎年個展をこの時期に催すのだ。ここで始めて 既に二十五年になる。会計の方は全て、この画廊の会計士 に任せてあるという。
 パパが、後始末を急いだのには理由がある。それは、今 年の年末から来年の夏まで、阿寒湖畔とサロマ湖畔の別荘 に籠もって、絵を描きたいためだ。絵を描く道具と、衣類 と、食物を調達し、十月に新たに買い入れたバンに乗せ、 ユリカにFSXを運転させ、出かける予定だからだ。
 それらの別荘を定期的に手入れすることを現地の人に頼 んであるので、連絡し、年末から四月いっぱいまでは阿寒 湖に、五月から七月まではサロマ湖に行くので頼みますと 連絡済みだ。
 用意が整ったのは、東京湾から釧路港行きのフェリーが 出る前日で、二十七日だった。二人はそれぞれ車を運転し、 フェリーに乗り込んだ。釧路でお節料理や蟹に鯛やお餅や 鶏肉、そしてマトンの肉やお米や野菜類にレモンや柚など を買い入れた。
 それから阿寒湖畔まで、凍てついた国道を、タイヤにチ ェーンを巻いて北上し、別荘に到着したのは、十二月の三 十日だった。玄関口を覆っていた氷雪は、頼んでおいた人 が取り除けておいてくれたので、すぐに中に入れた。
 内部の部屋は昔のままだった。掃除もされていて、その 日からすぐに使えた。納戸に仕舞われていた暖房器具も、 きれいに手入れされていて、二人はまずそれらに灯油を入 れて、全室に暖房を入れて、内部の冷え切った空気を暖め た。ストーブの上に、水を入れられるケースが付いている ので、それに水も入れて、適度な湿気を保つように出来て いる。
 ダイニングキッチンのテーブルは、布団を掛けられるよ うに出来ていて、電気炬燵になるので、そこに入って、食 事をしたり、テレビを見るのに温かくて便利だった。
 プロパンガスでコンロを賄う。電気は通じているので、 風呂釜は電気式だ。買ってきたお節料理とお雑煮、鯛や蟹 などで元日の料理を食べた。
 湖面は氷結していて、銀盤でスケートを楽しめる。しか しユリカは、専らドライヴで、弟子屈まで、阿寒横断道路 の冬景色を楽しんだ。樹氷が陽の光にいろいろと輝きを変 え、魅惑的だったから。
 途中に、屈斜路湖や摩周湖といった大きな湖がある他、 雄大な原生林の樹氷が見られ、とても壮観だ。ダイナミッ クな景観だ。ユリカはその美に呑み込まれるように引きつ けられ、連日ドライヴした。そしてオートフォーカスの望 遠レンズのカメラで、写真を撮りまくった、パパの絵の材 料にと。時々パパの絵のモデルにもなった。背景は、湖や 樹氷だ。
 ユリカが撮影してきたものを、パパは更に芸術的に洗練 して行った。モチーフはパパが決める。湖面の凍った様子 を描くのに、パパはちょっと苦心したが、持ち前の具象画 家の才能を発揮して、見事な油絵に仕上げていった。
 「銀盤の妖精」とか、「樹氷に瞑る妖精」など、ファン タスティックな作品を続々と完成させていった。雪が溶け だし、樹木の氷が水滴になり、美しく妖しく煌めきだした 五月の初め、パパは阿寒からサロマ湖畔に移ることに決め、 引っ越しの準備をした。パパはここで十五点の油絵を完成 させた。阿寒を後にした。
 美幌峠を越え、網走に着き、そこでお寿司屋さんに入り、 取れたての魚介類などを美味しく食べ、サロマ湖畔へと、 オホーツクに沿って進んだ。大草原の中の馬の放牧地帯を 走り、その美しい景色に魅了された。緑なす平原の水たま りに、白い馬が一頭立ち止まっている姿は、殊更、大自然 の美しさを印象づけた。春の花が一斉に咲き揃い、浜茄子 はまだ咲いていなかったが、原生花園は魔力的な美に包ま れていた。
 網走湖から能取湖、そしてサロマ湖へ通じる道路は、大 草原の春に薫っていた。こんなに美しい平原を見たのは初 めてだった。サロマ湖畔の栄浦の別荘に辿り着いた。





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 4章 ∴





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